未乾と泣菫と猫の蔵書票

 

f:id:motobei:20220317160002j:plain

 


 船川未乾画伯が創元社の刊行物を集中的に装幀をした経緯を知りたくなった。

 同出版社を創設した矢部良策の人生を綴った格好の著作、大谷晃一「ある出版人の肖像―矢部良策と創元社」(88年、創元社)を見つけた。

 

 創元社は、大正14年(1925)、父・矢部外次郎が大きくした出版取次業等の福音社から、別個に良策が立ち上げた大阪の出版社だった。出版に消極的な父を説得しながら「文芸辞典」「水泳競技」と、堅実な刊行物で慎重な船出をしたのだった。

 

 良策が打って出たのが、昭和2年(1927)の尾関岩二「童話 お話のなる樹」の刊行だった。装幀を未乾が受け持った。未乾は、矢部良策のスタートラインに立ち会ったのだった。

 

一月七日に『童話 お話のなる樹』を刊行した。著者は新進の童話作家である尾関岩二で、(中略)大阪毎日新聞や大阪時事新報社に在籍した。船川未乾の装画を入れ、銀箔箱入りである。未乾は、若いが有望な洋画家だった」(上掲書)

 

「若いが有望な洋画家」とされた未乾がどういう経緯で起用されたかについては、残念ながら触れていなかった。

 ただ、この出版について大谷は「出版人としての良策の客気があふれる」と、高く評価している。採算度外視しても出したことを褒めているようだ。

 

 娯楽ものの出版で知られた大阪では、明治以来文化的な著書の出版は極めて稀だった。大阪の金尾文淵堂が刊行した薄田泣菫「暮笛集」(明治32年)が例外的出版として話題になったという。少年時代の良策は、「暮笛集」を手にして、自分もこういう出版をすると決意しており、この本は彼の夢実現の第一歩でもあった。

ところが期待に反してあまり売れない」「『お話にならない本や』/と外次郎がひやかす。」と大谷は書いている。

 

 だが、投じた一石は無駄ではなかった。責任を感じた尾関は、「売れ行き不振をつぐなう意味で同じ社の泣菫の本の出版を取り持」ったのだという。大阪毎日新聞の学芸欄に執筆していた泣菫を引っ張り出してきたのだった。

最近の随筆一切を集めて『猫の微笑』を、五月十五日に発行した。ようやく、泣菫の本を出せたのだ」。売れ行きは好調で、五日後には重版。「何万部かに達した。創元社としてはじめて、よく売れた」。(「猫の微笑」については、先に触れている)

 

f:id:motobei:20220317154845j:plain

 

 明治44年、大阪の帝国新聞で仕事をしていた泣菫の下で、東京の洋画家森田恒友や織田一麿が仕事をしたことを前に書いたが、大阪毎日新聞に移った後、パーキンソン病を患い休職、昭和初めの泣菫は体を動かせない状態で執筆活動をしていた。

 

f:id:motobei:20220317211215j:plain

 泣菫に助けられた良策は翌3年(1928)、再び冒険する。竹内勝太郎の詩集「室内」の刊行だ。先に書いた未乾装幀の著書がそうだ。

一月十日に、創元社は竹内勝太郎の『詩集 室内』を刊行した。竹内の友人の船川未乾や尾関岩二の口利きであった。竹内は京都に住み、学者や画家に知己が多いが、まだ世に広く知られていないうえに象徴主義の詩人である。出版は冒険であった。しかし、良策はそれに意義を見つけて気負うている。」

 

 竹内の詩集刊行に、未乾が骨を折ったことが記されている。

「未乾の装丁で、豪華な本になって竹内を喜ばす。」

 良策も未乾に満足したのだろう。京都で出版記念会を開いたことも書いてあった。

一月二十八日に京都ホテルで出版記念会を開く。良策は発起人で奔走した。志賀直哉、落合太郎、西山翠嶂、土田麦僊、榊原紫峰、津田青楓ら四十余人が出席した。出版記念会はまだ珍しく、各紙がこれを報じた」

 奈良に移住していた志賀直哉も顔を出している。

 

しかし、当然そんなには売れなかった

 翌4年(1929)元旦付で、創元社は、薄田泣菫の「艸木蟲魚」を刊行した。21版まで版を重ねる売れ行きで、普及版、携帯版も出したとある。

 

 「童話 お話のなる樹」  →   「猫の微笑」

 「室内」         →   「艸木蟲魚」

 

 泣菫の著書が経営的にリカバリーをして、生まれたばかりの出版社が救われたことがよくわかる。結果的に未乾、勝太郎も、泣菫に助けられていたのだった。

 

 泣菫のこれらの刊行物は、名越国三郎に装幀を任せている。大阪毎日時代から挿絵を頼んでいた間柄だった。(泣菫が未乾に関心がなかったわけではないことは、泣菫が未乾の作品を購入している事実から伺える)

 

 昭和3年に倒れた未乾は、同5年(1930)に逝去した。

 本棚にある昭和初期の創元社の本を探した。同4年「北尾鐐之助/近畿景観」があった。ぼろぼろの裸本であるが、創元社が装幀には力を入れていることが伺える。

 近藤浩一路の装幀だった。関東大震災で被災し東京から京都に移住していた画家だ。

 

f:id:motobei:20220317154938j:plain



 船川が元気ならば、創元社のこうした書籍でも装幀を頼まれていたかもしれない―。

 そう思いつつも、近藤もまた2年後にパリに向かい、現地で個展を開き、作家アンドレ・マルローと親交を結び、彼の小説にも登場する人物になるのだった。

 

 夢をもっていた才能たちが、生まれたての創元社で交錯していることが分かる。短い命しか持てなかった才能たちに、私は知らず知らず心をひかれていたのだった。

 

f:id:motobei:20220317155035j:plain



「近畿景観」には、かつて読んでいた人が貼ったと思しき猫のイラストがあった。蔵書票の代りにしていたようだ。よほどの猫好きなのだなあ、と感心した。

 

 

 

 

 

 

「室内」未乾画伯の表紙絵

 船川未乾画伯が装幀した竹内勝太郎の詩集「室内」(昭和3年=1928、創元社)を手に入れることが出来た。やはり私には新鮮なものだった。

 

 本は、カバー表紙を欠いていたが、箔押しの表紙の迫力に驚いた。(カバーは、活字だけのデザインだった)

 

f:id:motobei:20220314124812j:plain

 

常磐色」のようなグリーンの地に、「生成色」のような乳白色で鉢植えと敷物の地を取り、そこへ金箔押しで静物の輪郭を一気に打ち込んでいる。

 

 表面を触ればもちろん凹凸がある。画伯の持味である可憐さを失わずに、力強さが加わった装幀だと思った。

 

f:id:motobei:20220314125318j:plain

 

 竹内勝太郎にとっては、5作目の詩集だった。「広辞苑」で知られる言語学者新村出が「題言」を寄せていた。

 

 竹内はそれまで、4つの詩集を出し、大正13年(1924)から毎回新村に献呈していた。すべて良しというわけではないが、新村は夏の旅行に携帯し、冬は炉端で愛誦してきたという。

「四つの集はもともと同君自身の試刷ともいふべき程の、あまりに素朴すぎた形と窺はれたものではありましたから、平素愛誦してゐた私からは、せめて一とほりの体裁に改装して世にあらはされてはどうかと、何度かお勧めして見たこともあります。」

 

 きちっとした体裁の本を出してはどうかと、新村は竹内に勧めていたのだった。

 

「竹内君が今度既刊の試稿と新作の諸編とから、精華を抜き来たつて一冊の選集を作り、それに「室内」といふつつましやかなゆかしい名をつけて、而もそれが創元社の矢部君の詩文を愛するの誠意に基き、更に詩人と親交のある船川画伯の意匠を加へて世に出されるまでに進んだといふ話を聞いて、こんな嬉しいことはないと思ひました」。

 

f:id:motobei:20220314125055j:plain

 

 大正14年に大阪で「創元社」を設立した矢部良策は、昭和8年谷崎潤一郎の「春琴抄」でベストセラーを出し、同11年顧問に小林秀雄を迎え、同12年には創元選書を刊行、事業を拡大していくが、すでに創業時の手探りの中でも、充実した刊行をしていたことが分かる。

 興味深いのは、この創元社で船川未乾画伯が装幀に多用されていることだ。

 

 昭和2年 園頼三「怪奇美の誕生」、尾関岩三「童話お話のなる樹」、関口次郎「鴉」。昭和3年の「室内」を加えると、4作。同年、病気で倒れなければ、もっともっと装幀の依頼があったのだと思われる。

 

 創元社の矢部良策が船川画伯を買っていたということに他ならない。

 

「鴉」の装幀を私は見たことがないが、青空文庫でとある文章を見つけて、いっそう関心がわいてきた。

 岸田國士による書評で、「戯曲集『鴉』の印象」(昭和3年、文芸春秋2号)だ。

「此の『鴉』一巻を手にして思ふことは、わが関口次郎の仕事はこれからだ――といふことである。(略)その辺で一と先づ息をついて、やれやれこゝまで来れば……と気をゆるしてしまふところを、あくまでも、もう一と息、もう一と息、と新工夫を積んでゐる。その姿がはつきり、此の一巻の中に浮び出てゐるからである。
 今日まで新劇の揺籃時代とすれば、次の時代は、かくの如き作家によつて始められるのであらう」と、本を評した後で、

「かかる時、戯曲集『鴉』の刊行は、誠に意義があると云はなければならない。/舟川(ママ)未乾氏の装幀は、此の紀念すべき著書を最もよき趣味に於て飾り活かしてゐる」と、未乾画伯の装幀に、異例の言及をしていたのだった。

 

 新しい洋画家、装幀家として、東京の第一書房長谷川巳之吉、大阪の創元社の矢部良策の心をとらえた船川画伯は、人気戯曲家の岸田國士の目にもとまっていたことが分かる。

 

 

 

  

 

パンテオンの船川未乾

 船川未乾画伯の手がかりが、すこしずつだが、つかめて来た。

 

f:id:motobei:20220308120800j:plain

 詩誌「PANTHEON」の6号(昭和3年=1928=9月発行)に、画伯の静物画が7点、同8号(同11月)にもカラー版で静物画1点が掲載されていた。6号では、画伯の5ページにわたる長文の寄稿を読むことが出来た。

 

 この詩誌パンテオンは、大変凝った装幀なので、びっくりした。「書物の美」にこだわった長谷川巳之吉(1893-1973)の第一書房の本作りとは、こういうものかと思わせるものだった。

 

 詩人でフランス文学の翻訳者、堀口大学(1892-1981)を中心に、詩人の日夏耿之介西條八十との共同編集の形でスタートしたが、6、8号には西條の影はなく、長谷川自身が代役を務めていた。

 

 店頭販売はせず、予約した愛好者に送付する形式で、「PANTHEON」は、「汎天苑」とも表記されている。

 

f:id:motobei:20220308120235j:plain

 

 表紙は、太い棒に手を添えて立つ若きアルルカンと、足元に腹這う犬の線描画。

 ページを繰れば、アールデコ風の木版画の装飾の下に、詩が掲載されている。

 

f:id:motobei:20220308122902j:plain

 なぜ、画伯の絵が掲載されたのだろう。「船川未乾氏のこと」と題して、6号に、長谷川が書いていた。

 

船川氏は京都の法然院の近くに居住して、専心画筆に親しんで居られます。昨年の初秋、丸善で個人展覧会を催されました。その時私は感嘆の余り一寸した感想を書きましたが、私はその時初めて氏の作品を識ったのであります。以来私は日本の洋画家中、船川氏を代表作家として尊敬して居ります。」

 

 フランスから帰国後に東京・丸善で開催した船川の個展へ長谷川が足を運び、作品に感銘したのだった。一挙に7点の写真版を掲載したのは、長谷川の意向だったことが伺える。

 

f:id:motobei:20220308120548j:plain

 画伯の文章は、「私は自分の絵を詩人に見て貰ひたい」と題したマニュフェストのような内容だった。

わたしは創作する時に、絵を描かうと考へたことは嘗てなかったし、また今後もないだらうと思ふ」という刺激的な書き出しで始まる。

私は詩を描いて居る。私の詩を組み立てる處の要素は線であり、面であり、色である。私はさうした線や面や色をして私の詩のリズムを作り上げる

 

 詩という言葉にこだわっている。

 

詩とは、音楽、彫刻、文芸等の各科に共通的に存在してゐて、其れ等の作品をして芸術作品たらしめる処の微妙な一つの要素を指して言ふのである。/ラオコーンは世界の名彫刻であるが、あの彫刻が貴いといふのは、ラオコーン其れ自身ではなくて、あの作品の中に封じ込められた詩が貴いと言ふのである

 

 画伯は、フランス画家アンドレ・ロートに師事し、キュビズムの考えを身に着けて帰ったようだ。創作の方法論としてキュビズムを念頭に置いているようだ。

 

私は近代の最も新らしく作り出された科学的な研究に依る線と、面と、色彩とを駆使して、そして詩の第一義に押し逼って行かうとして居るのだ。/キュービズムが作り出した要素の科学的研究は、新しい芸術の基調をなして来て居る。劇はこの研究に依って更生した。舞踊はこの研究の助けを借りて、最も効果あるものとなった。彫刻や絵画が其れに依って影響された事はいふまでもない。

 

f:id:motobei:20220308123031j:plain

 

 私にはよく呑み込めないが、キュービズムといえば、1907年ごろからピカソ、ブラックが追求し、広めた。単一視点の遠近法を捨てて、複数の視点を得ることで、形というものを解体し、抽象化、単純化への道を開いて行ったといった風に理解している。

 

 画伯は、写実から解き放たれ、線、面、色彩による画面構成の作業を「詩作」として取り組んでいる、と言っているように聞こえる。

 

自分の絵を詩人に見て貰ひ度いと思って居る。其れは私の絵は、詩以外の鍵を以ては、決して開く事の出来ぬ扉なのであるから」。

 

f:id:motobei:20220308120957j:plain

 

 掲載された静物画には、ブラックを思わせる作品もある。1926年から1928年にかけてのもので、背景のある写生風のものから、しだいに画面構成を意識した作品に変わって行き、1928年の作品には、画伯らしいオリジナリティを私は感じた。

 

 詩誌パンテオンは、1年の短い命だった。10号で幕を閉じてしまったのだ。長谷川は、この後も、船川画伯を他の刊行物で起用したのだろうか。

 創作を深めている際中だった画伯は、2年後に病没する。28年以降の作品を探して見てみたいと思った。

 

 

紫峰と西班牙舞踏曲

 京の日本画家榊原紫峰(1887-1971)が、詩人の竹内勝太郎と深い交友があったことを今回初めて知った。

 私が、この日本画家に関心を持ったのは、カザルスのチェロ演奏をSPレコードで聴いて、感動を抑えきれず、このままの気持ちで絵画制作に打ち込みたいと、奈良へスケッチ旅行に行ったという逸話を知ってからだ。

 

 芸術はジャンルを超えて、画家が音楽から霊感を受けて描くという事が実際あるのだな、と感心したのだった。

 

 記憶を確かめてみた。前に読んだ田中日佐夫「日本画繚乱の季節」(美術公論社、83年)を開いた。

 

f:id:motobei:20220303133635j:plain


「私の『奈良の森』はカサルスのセロ『西班牙舞踏曲』から受けた印象が第一のモチフになってゐる。(中略)この曲を聞いて非常に美しい感じに打たれた時、私は突然『奈良へ行かう』と思ひついた。奈良へ行けばこの気持をはっきり言い現はすことのできるやうなものにぶつかるに違ひないといふ気がしたのである。それから私は二箇月余り奈良の古い寺に住んだ」と、紫峰は書いていた。少し違っていたが。

 

 森に集う鹿五頭を描いた二曲一双(188x233㌢)の大作「奈良の森」はこうして生まれ、紫峰の代表作となった。大正9年(1920年)のことだった。

 

 カザルス演奏のCD「CASALS EARLY RECORDINGS 1925-1928」を探すと、スペインの作曲家グラナドスの「SPANISH DANCE」が見つかった。カザルスがチェロ演奏用にアレンジしたものだった。多くの人に親しまれ、私も心動かされる曲だ。

 

f:id:motobei:20220303133605j:plain

 

 録音のデータは1928年2月28日。紫峰が20年に聴いたということは、これ以前に別の録音があったことになる。

 

 このとき、紫峰は、「文展」(官展)に飽き足らず、大正7年(1918)に京都の画家たちが旗揚げした「国画創作協会」の創立会員として大いに活躍していた。メンバーは土田麦僊、村上華岳、小野竹喬、野長瀬晩花と錚々たる画家たちだった。同年東京・日本橋白木屋で初の協会展開いたのち、京都・岡崎勧業館に戻って開催をした。

 

 興味深いのは、洋画家船川未乾を支援した京都帝大の深田康算教授が、国画創作協会の京都ホテルでの発会式に来賓で顔を出し、同会の月刊誌「制作」に、深田の師ケーベル博士とともに寄稿して、応援していたことだった。

 

 詩人の竹内勝太郎は当時、新聞社文化部の記者をしており、国画創作協会の動きも追っていた。また、大正6年(1917)深田教授らの支援を受け京都帝大学生集会所で個展を開いた洋画家の船川は、京都の美術界のこの新しい波の中で、榊原とジャンルを超えた出会いがあったのだろう。

 

 カザルスの演奏に紫峰が感動した1920年当時、三人の年齢は

 

 未乾 34歳

 紫峰 33歳

 勝太郎26歳

 

 東京で三木露風に師事した勝太郎は、京都で記者の傍ら詩作を続けていた。(8年後の28年知友の支援を得て仏留学。帰国すると京都美術館設立へ向けて市の嘱託となる)

 風景画の中川八郎(太平洋画会の創立メンバー)に学んだ未乾は、独自の世界を模索して京都で活動していた。(2年後仏留学。キュービズム系の画家アンドレ・ロートに師事、エッチングの技術も習得して帰国)。

 

 京都では、明治43年(1910)に深田康算の京都帝大文学部「美学、美術史講座」が開講、彼ら新進美術家、詩人への理解や支援の気運が生まれていた。

 

f:id:motobei:20220303133903j:plain



「奈良の森」に戻ると、紫峰は「(作品の)基調となって豊富に使はれてある黄金色は、西班牙舞踏曲の古典的で然も華麗な幻想が制作の背景となって裏付けしてゐるのを示してゐるのである」とグラナドスの舞踏曲と創作の関連性を書いている。

 音楽からのインスピレーションは、「黄金色」で表現されているということらしい。

 

 スペインの作曲家グラナドスも、自作から生まれた紫峰の日本画の大作を知ったとしたら、驚くに違いないのだが、1920年当時鬼籍に入っていた。第一次世界大戦中の1916年、オペラ「ゴイェスカス」がNYメトロポリタン歌劇場で初演され、グラナドスは演奏に立ち会った。故国への帰途、乗船していたサセックス号が、英仏海峡でドイツ潜水艦の魚雷の攻撃に遭い沈没し、落命したのだった。

 早い便で帰る予定だったが、ウイルソン米大統領に招かれて演奏会に出席し、帰国便を代えたことで、この悲劇に巻き込まれたのだった。戦争は多くの人の命を簡単に奪う。紫峰はこのことを知らないで描いたのだと思う。

船川未乾画伯と詩人竹内勝太郎と

 京の大正時代の洋画家船川未乾画伯の絵を表紙に用いた古書が届いたので、また画伯について調べてみた。本は、京都の詩人竹内勝太郎(1894-1935)の「随筆西欧藝術風物記」(昭和10年、芸艸堂)。

 

f:id:motobei:20220301144449j:plain

 

 船川未乾の装幀本をざっと調べた。

 

大正10年 藤井乙男「江戸文学研究」(内外出版)

      川田順「歌集陽炎」(竹柏会出版部)

      ロシア文学アンソロジー「心の劇場」(高倉輝訳、内外出版)

大正11年 川田順「歌集山海経」(東雲堂)

昭和2年  園頼三「怪奇美の誕生」(創元社

      尾関岩二「童話お話のなる樹」(創元社

昭和3年  小田秀人「本能の声」(ぐろりあ・そさえて)

      竹内勝太郎「室内」(創元社

(昭和5年 未乾逝去)

昭和10年 竹内勝太郎「随筆西洋藝術風物記」(芸艸堂)

 

 以前に未乾装幀の川田順歌集「陽炎」に触れたが、翌年出版された歌集「山海経」もまた、未乾が装幀をしていたのが分かった。

 初版から10年後、春陽堂文庫として「山海経」が再刊されたとき、川田が、未乾画伯に触れていたのを見つけた。

 

f:id:motobei:20220301144142j:plain

装幀畫は京都の洋畫家船川未乾と云ふ人が描いてくれて、非常に評判が良かった。惜しいことに、その船川君は巴里から歸るとやがて健康を害ねて、大分以前に病歿してしまつた。然も、その初版も關東大震火災に遭つて大分焼失したらしい。既に珍本となつて、予の手許にさへ一部しか残つて居らぬ。十数年は近いやうで遠いものだと、只今しみじみ考へさせられてゐる」(山海経再度の改訂に就いて)

 

 チョウチンアンコウらしい魚をあしらった表紙、見返し。

f:id:motobei:20220301144234j:plain

 

 大正11年の東雲堂の初版でも川田順は書いている。

 

装幀に就いては、京都の洋畫家船川未乾君に非常な御厄介をかけた。原畫は藝術的の匂ひの高いものであつたが、版にしてはその趣致の半分も表れなかつた事を同君の為めにも御気の毒に思ふ。

 

 前作の「陽炎」の時より、川田自身が装幀を気に入っていた様子が伺える。

 

 この時も、未乾画伯を起用したのは、川田ではなく、出版サイドの東雲堂の歌人西村陽吉(1892-1959)だったようだ。

西村陽吉君経営の東雲堂書店から発兌したのであつたが、當時西村君とそれから矢嶋歡一君とが自分逹の事のやうにして何から何まで盡力してくれた」と、春陽堂文庫版のあとがきで振り返っている。

 西村は石川啄木「一握の砂」を出版した人物で、自身の歌集「第一の街」などを見ると、装幀にこだわりを持っていたことが知れる。

 

 詩人竹内勝太郎と未乾に戻ると、同じ京都で活動した2人は、大正8年に出会って親交を結んだと年譜にある。竹内は未乾より8歳年少だった。若くして上京してそれぞれ詩、美術を学び、京にいったん戻って、渡仏している―経歴もそっくりだ。

 

 太平洋を渡って米国に向かい、フランスからシベリア鉄道で帰国した竹内は、翌年未乾画伯の死にショックを受ける。乾性肋膜炎による病死。44歳だった。竹内は西欧の旅日記を刊行するにあたって、未乾画伯の絵を表紙に択んだのだった。

 

この旅行は確かに私の生涯の転機になったと思ふ。だからこの本は記念物と云ってもよい。そう云ふ意味から二人の旧い心友、故船川未乾君の絵で表紙を装ひ榊原紫峰君の跋文を以て巻末を飾ることが出来たのを私は心から喜ぶ。そして私はいつまでも青年の気持を忘れずにこの基礎から出発し直したいと考へてゐる」と文章を締めくくった。

 

 しかし竹内は、この本の完成を見ることが出来なかったのだった。私は、本書の最後の榊原画伯の追悼文を読んで驚いてしまった。

彼は黒部谿谷の探勝に出かけて、過ってその谿谷中に墜落して了った。然も探勝は、彼自らの本書校正中の事件であった

 1935年6月山歩きの単独行に出た竹内は、黒部渓谷で滑落したのだった。行方不明になり、捜索の末遺体が黒部川で発見されたのだった。

 

f:id:motobei:20220301151355j:plain

 

 絶筆となった旅先からの葉書、事故現場の写真も掲載されていた。6月23日に奥飛騨の平湯に宿泊した竹内は、上高地に出る予定を変更し、鉄路で黒部渓谷の宇奈月温泉に向かった。25日同温泉から発信した葉書には、黒部川をさかのぼり、鐘釣温泉を目指すと書かれていた。

 丁度その頃、「黒部の父」とその後言われる登山家冠松次郎が、沢登りの技術とともに黒部渓谷を開拓し魅力を発信していた。1928年「黒部渓谷」、1930年5月「黒部」を刊行。竹内もおそらく目を通して、黒部渓谷にひかれたのだろう。

 

f:id:motobei:20220301144848j:plain

 

 享年四十。彼もまた、未乾同様、象徴派詩人として将来を嘱望されながら途半ばで命を失ったのだった。

 かわいい装幀の絵を見ながら、大正~昭和初期の京の芸術家のはかない生涯について思いをはせることになった。

 

 

 

復古の動きと二条家俳諧

 猫がテレビに夢中になっている間、天明8年(1788)の京都の大火について、少し考えてみた。

 

f:id:motobei:20220228135459j:plain

 

 京の俳諧師でもっとも被害を被ったのは、夜半亭を蕪村から継承した三世高井几董だった。御所近く椹木町通りの家を焼かれ、予定した「井華集」の板木も焼失。大坂へ転居。門人たちに誘われて、須磨、吉野と尋ねたが、翌年に急死した。

 難を逃れたのは、東山の真葛が原周辺の俳諧師だった。雙林寺境内の芭蕉堂は無事だった。被災翌年、几董は真葛が原へ高桑闌更、西村定雅を訪ねている。どんな会話がなされたのだろうか、今となっては分からない。

 

 京を燃やしつくした天明の大火では紫宸殿、仙洞御所などのほか、公家屋敷も灰燼と化した。御所の北方、二条家今出川邸も焼けた。

    いずれも再建には2年以上かかったが、二条家は御所より先に完成したようだ。御所に光格天皇が戻る前に、二条治孝二条家俳諧の初の句会「花御会」を新しい邸で開催した。

 寛政2年(1790)9月5日。俳諧宗匠の免許を得た暁台、月居が紫の水干、白指貫、風折烏帽子姿で、執筆、主事の役目の俳諧師らと、治孝の御前に臨んだのは、新築の今出川邸の、寝殿の北面、あるいは寝殿に接した西方の建物だったと思われる。

 歌道の公家とされる五摂家二条家は、大火からの復興の初めに、全国的に広がる俳諧ブームのなか、松尾芭蕉の精神を受け継ぐ蕉風だけが価値あるものとして、「正風中興」を旗印に「二条家俳諧」を始めたのだった。和歌の公家が、大衆文芸の俳諧師宗匠免許を与えるという画期的(前代未聞)なものだった。

 

 光格天皇は、大火の時は17歳だった。下賀茂神社に脱出し、聖護院を仮御所として過ごすことになった。年少のころから、古代律令制への復古思想を育んだ天皇は、大火後の復興を自分の考えを示す好機と捉えた。

 まず、天皇は、新御所は、復古的に造営することを決意。関白鷹司輔平左大臣一条輝良とはかり、経費削減を進める幕府の担当、老中松平定信を相手に強く主張してしぶしぶ合意させた。

 復古イベントも企画した。火災からほぼ3年、寛政2年11月22日、聖護院から新御所へ戻る遷御の儀式を格好のチャンスとした。古代朝廷儀式に則り、鳳輦にのった天皇を運ぶ行列は、京の人々の目に留まるように、一旦南に下って三条大橋を渡り、万里小路を北に上って、清涼殿に入る4、5時間もかけたものだった。古代絵巻の再現を演出した催しは、事前PRがきいたか、松阪から国学者本居宣長も見物に来たという。(伊藤純「隠岐国駅鈴と光格天皇大阪歴史博物館研究紀要2017)

 

 伊藤論文によると、光格天皇は幼少のころから記紀、和歌などを学び、復古の思想を育てていた。「殊に御学文を好ませ給ひ、わが国に歌道、また有識の道に御心をつくさせた給ひ」と「小夜聞書」に記されているのだという。古代儀式を次々に復活させた天皇は、当然のように歌道を重視していたのだった。光格天皇の復古の動きは、その後の明治維新へ至る動きの出発点として、歴史的に認知されている。

 

 寛政2年、王政復古の動きをする光格天皇と、和歌の伝統に縛られず、大衆文化を取り込もうとする二条家と、別の方向を進んだとしか思えない。二条治孝俳諧では希伊と号したらしい。暁台は、天明4年(1784)焼ける前の二条邸にも招かれ、希伊は「あまつたふ星のみかげになくちどり」と句を作ったという。興味深い人物だ。

 

 復古を目指す光格天皇には、このような二条家の振舞いはどう映ったのだろうか。文化2年(1805)、二条治孝の関白昇進を前に、光格天皇が「非器」として、断固拒否したことにあらわれていると思う。

 

 文化5年(1808)、長崎に英国軍艦フェートン号が侵入し、オランダ商館長ドゥーフ(西洋人で初めて俳句を作った)が避難するなど、日本開港に向けた大国の動きが活発になって来る。

 

 寛政、享和、文化、文政と、俳句を中心に京を俯瞰すると、時代を先取りして王政復古をアピールする光格天皇が出現する一方、摂家二条家は大衆文化・俳諧を取り込みにかかる。二条家宗匠の看板を得て闌更、蒼虬は東山の芭蕉堂を拠点に地方にネットワークを広げ、その周辺で定雅が画家岸駒も巻き込み俳仙堂を設立する。一連の俳諧師の動きを上田秋成は批判的に観察している。「俳かいをかへりみれば、(松永)貞徳も(西山)宗因も桃青(芭蕉)も、皆口がしこい衆で、つづまる所は世わたりじゃ」(文化6年「胆大小心録」)

 

 やがて、尊王攘夷の嵐が、京にも吹き荒れ、半世紀後(1863年)新選組が設立される。俳諧を全国に広めるのに寄与した伊勢講からは、倒幕につながる「おかげまいり」「ええじゃないか」が巻き起こる。

 少しずつ、調べていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猫の日なれば一茶、大江丸

 2月22日はにゃあにゃあにゃあで、猫の日なのだという(1987年制定)。

 

 今調べている天明、寛政期の俳諧師にも猫の句は少なくない。

 

 大坂の大伴大江丸には、下の句。

 

 ねこの恋鼠もいでて御代の春

 きりぎりす猫にとられて音もなし

 春たつといふは(ば)かりニヤ三毛猫の

 

 そして猫の句といえば、前にも触れた小林一茶

 鬼灯を膝の小猫にとられけり

 猫の子や秤にかかりつつじゃれる

 かくれ家や猫にもすへる二日灸

 大猫の尻尾でなふ(ぶ)る小蝶かな

 

 一茶には、ほかにも数えきれないほど猫の句がある。

 

 大江丸と一茶を例に出したが、この2人の稚気あふれる俳句は通じるところがあると前々から思っていた。そう感じるのは、私だけではなかったようだ。

 明治31年に、俳人の岡野知十が一茶と大江丸の作品を一緒にして編集した「一茶大江丸全集」(博文社)があるのを知った。

 

 一茶   1763-1827

 大江丸  1722-1805

 

「両家が同年代の俳家なり、尚又同じく諧調の作家として特色をあらはしたればなり」と、岡野知十はこの全集を出した理由を語り、「諧調」という言葉で、二人の作風の共通項を括っている。ここでいう「諧」は、たわむれの意だろう。 

 

f:id:motobei:20220222140837j:plain大江丸

 

 二人は確かにつながってはいた。

 30代前半に一茶が西国行脚に出た際、二人は大坂で会っており、一茶の句集に大江丸は参加していたのだ。

 

f:id:motobei:20220222141103j:plain一茶

 一茶のこの時点までの活動をおさらいすると、15歳で故郷の信濃を出奔、江戸での奉公生活を転々としながら、葛飾派素丸から俳諧を学び、天明年間には名が知られるようになった。29歳になった寛政4年(1792)、俳諧師のネットワークを頼りに、6年に亘る西国行脚に出る。九州、四国と周り、大坂、京も訪ね、行脚の成果として寛政7年、大坂で初めての撰集「たびしうゐ」を出板。江戸に帰る同10年(1798)には、「さらば笠」をまとめた。

 

 2冊を見ると、京では、芭蕉堂・闌更が積極的に一茶に付き合っているのが分かる。京の俳諧師は丈左も顔を出しているが、定雅らの名はない。

 浪花の大江丸は、「たびしうゐ」とともに「さらば笠」に1句ずつ寄せている。

 江戸に帰る一茶に贈った後者の句はー。

 

木々の芽にはや遠山の入日哉

 

 若々しい35歳の一茶を「木々の芽」に、76歳の大江丸を「遠山の入日」に例えたかのような句を作っていた。

 もっとも大江丸は2年後、79歳の高齢で江戸へ旅立ち、角力、芝居見物の後、白河、常陸まで足を伸ばしている。

 

 大江丸には、一茶を送る句がもう一句残って居る。著名な句で、

 

 「雁はまた(だ)落ついて居るにおかへりか

 

 前書きに、「一茶坊の東へかへるを」とある。

 

 雁はまだ北へ帰る気配もないのに、一茶坊はもう江戸にお帰りか、と引き留めようとした句。話し言葉を活かした大江丸の句の特徴が出ている。

 

 私は今回、一茶発句集(文政12年)をさらっていて、下の句を見つけた。

 

 今少(いますこし)鴈(かり)を聞迚(きくとて)ふとんかな

 

 秋に渡って来た鴈の侘しい鳴き声を理由にして、ぐずぐずとして布団を出たがらない男を描いた句だろう。大江丸の句から15年後の文化10年の作だった。

 

 一茶は西国行脚の後、しだいに作風は「諧調」を帯びてくる。

 

 大江丸は40歳も年下の一茶に期待をしたようだが、果たして一茶にとっての大江丸はどういう存在だったのか。しらずしらず大江丸の句の影響を受けたのかどうか。

 

「(この旅で)後年彼の俳諧道の大成をなす、文学活動をたすけた、多くの有力な知己を得るに至った。大阪の升六、また伊予の栗田樗堂、更に京都の闌更、飛脚屋の主人大江丸など」(高井蒼風「信濃畸人傳」1971)では、まだ通り一遍で物足りない。大島寥太門の2人の関係が少しずつ明らかになってきたらいいなと思う。

 

 さて、ニヤという猫の鳴き声を俳句に取り入れた大江丸の「春たつといふはかりニヤ三毛猫の」の句が気にかかる。どういう句なのだろう。

 

 まだ立春になったばかり、猫の恋する季節はまだ先ですよと三毛猫が言っていると解釈すればいいのか。いやいや、まだ肌寒いのに、春が来たと三毛猫ばかりがその気になっている、ということなのか。残念ながら私には分からない。

 

f:id:motobei:20220222143937j:plain立春も過ぎ、わが家の猫はテレビの猫に興味津々