真葛が原の風の咎

「京師の人物」と題して、瀧澤馬琴は、「羇旅漫録」に記している。

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京にて今の人物は皆川文蔵と上田餘斎のみ」。享和2年(1802)に京を旅した馬琴は、この二名しか、京に同時代の文人はいない、と語りだす。

「餘斎は、浪花の人なり、京に隠居す」と注をつけている。

 

 つまり皆川淇園上田秋成のみだと。享和2年、儒者の淇園は、学問所弘道館の設立を前に、中立売室町で門人を受け入れて育てていた。松浦静山ら大名を含む3000人の門弟がいたことで知られるが、馬琴は「しかれども文蔵は徳行ならざるよし聞ゆ」と書いている。

 秋成は、寛政5年に京に移転し、知恩院前袋町、南禅寺山内、東洞院四條など転々とし、当時は寺町通広小路下ルの羽倉信美邸にいたようだ。京の俳人で交流のあった蕪村、几董ともに鬼籍に入り、馬琴は秋成が「世をいとうて人とまじはらず」と記している。 

 秋成は、俳句も作ったので、当時の二条家俳諧にも思う事があったに違いない。死後刊行された「癇癖談(くせものがたり)」に以下のような箇所がある。

 庭に来る駒鳥が、濁った世の中とは交わろうとしない主人(秋成のことだろう)に対し、自分だけは別だと考えるのは「一人天狗の行い」だと説教し、濁るといえば悪く聞こえるが、世の中というものはこんなものだ、と例を挙げる。

花見嫁入の晴着はいつか壬生狂言のおどりの衣裳となり、俳諧師のあたまに烏帽子がとまれば、神の玉垣きよめる七五三縄(しめなわ)は関取の褌にまとう

 晴着がなれの果てに壬生狂言の舞台衣装に変わり、神社のしめ縄がまわしの上に締められ(横綱)土俵入りの綱になり、そして、烏帽子がついには「俳諧師の頭」につけられるようになるのが、世間なのだと。

 二条家俳諧宗匠になった俳諧師の暁台、月居が、免許服の水干を着て、風折烏帽子を頭につけたことを揶揄しているとしか思えない書き方だ。

 

 「京師の人物」に戻ると、「蘆庵は故人となりぬ。画は月渓と雅楽介のみ。蘆庵応挙もおしむべし」と続けている。

 国文学者で歌人の小沢蘆庵は、馬琴上洛の前年に他界、円山応挙も亡くなって、画家は四條派の始祖松村月渓こと呉春(1752-1811)と、雅楽介こと、(虎の絵の)岸駒しかいないという。同時代人では、馬琴が認めるのは、皆川淇園上田秋成、呉春、岸駒だけなのだった。

 

 京に滞在中、都の文人の驕りを馬琴は感じたようだ。「凡そ京師の文人、見識甚だ高上、情才に過ぎたり。文学の事、京師の外みな村学と称す。しかれども是を説話するに、三ッのうち二ツは甘心しがたきこと多し。夫都会の人気おのづからみなかくのごとしといへども、京師尤も甚し。文人多くは風狂放蕩、是またこの地の一癖のみ。

 

 その後も馬琴と交流が続いた定雅、そして馬琴の文章に登場する土卵も、京の特徴の「風狂放蕩」の一群に含まれてしまうのだろうか。

 

f:id:motobei:20220218203335j:plain「都林泉名勝図会」でも銅脈は、胴脈と書かれている


 注で、馬琴は付け加えている。「京の人に滑稽なし、自笑、其碩と、近年胴脈とのみ。浮世草子の八文字自笑(?―1745)、江島其碩(1667-1736)、それに狂詩・滑稽本の銅脈先生(畠中観斎、1752-1801)だけは滑稽が分かっていると。

 そして、「むべなるかな、ばせをも蕎麦と俳諧は京の地にあはずといへり」と結んでいるのだった。

 

 この銅脈先生とともに、東西の大家とされたのが江戸の大田南畝。南畝が土卵にあて狂歌を作っているのを知った。

真葛が原にすめる狼狽窟のあるじによみてつかはしける」と前書きしている。

 江戸にも、富土卵は知られていたことが分かる。

長き日のあしにわらびの手をそえて真葛が原も風のとがなり

 新古今集慈円の歌「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風騒ぐなり」をもとに、土卵にからかいながら挨拶しているようだ。

 

 紅葉を急かす時雨も松葉を紅く染められないものだから(相手の心がなびかないから)葉裏が見える(うらみの)真葛が原の風が私の心にも吹いているー慈円の歌はそんな歌らしい。

 おみ足に手を添える狼狽窟先生の描く艶めかしい花街の色恋は、騒がしく吹いて蘆(足)に蕨の手を触れさせる真葛が原の風の咎なのでしょうとでも解釈すればいいのか、着物を捲りあげる裏見の真葛が原の風の仕業を想像すればいいのか、「長き日の」の言葉と共に、私には解釈できない。

 

 大坂の俳諧師大伴大江丸の紀行に登場した、私には未知の人物富土卵を追いかけて、雙林寺門前の隣人定雅を探り、いつの間にか深入りして、真葛が原で迷子になってしまったようだ。

 

 

 

 

 

都林泉名勝図会の中の定雅

 本棚の隅にある、昭和3年に復刊された「都林泉名勝図会」(寛政11年)を手に取った。寛政年間に活躍した京の俳人に関係するものが見つかるかもしれないと思ったのだ。

 同書は、京の林泉(林や泉水を配した庭園)を絵入りで紹介する京の観光案内といったらいいか。

 天明6年に刊行された京の名所案内「都名所図会」が大当たりしたので、翌年に「拾遺都名所図会」が出、10年以上間があいたが満を持してこの「都林泉名勝図会」の板行となったようだ。版元は「吉野屋為八」。住所は、京寺町通五条上ル町だった。

 

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 東山界隈を見ると、雙林寺長喜菴の林泉の画の中に、西村定雅の句があった。

 

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「むかしみし夜のおもむきや梅の月 定雅」

 

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 さらに探すと、円山長寿院左阿弥の画に

 

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「梅のはなあたら莟の開きけり 定雅」

が見つかった。

 

 画中ではないが、高台寺の項の文中には、

高台寺の花ざかりに」と前書きして

 

「迷ひてぞ世はおもしろき桜かな 定雅」

 

 また、鴨川に架かる四條祇園橋の項の文中にも、四條納涼として、蕪村の句「丈山の口が過たり夕すずみ」と並んで、

 

「涼しさや群集(くんじゅ)の中も水の月 定雅」

があり、定雅の作品は4句もあった。

 

 この書の凡例によると、「林泉に古人の詩歌寡し。故に今時京師に於て名家の詩歌を乞需て多く図中に釘す、其中に作者自筆の詩歌もあり、俳諧狂歌も亦これに准ず」とある。

 

 古来、林泉を歌ったものが少ないので、今の時代の京の「名家」に詩歌を依頼して掲載した、なかに自筆のものもある、ということだ。

 

 当時活躍していた京の俳人では、芭蕉宗匠の闌更が1句、月居、二柳が2句、暁台は1句だった。

 

 俳人では、天明3年に没した蕪村が4句で、定雅と並んでいる。

 

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   驚いたのは、東山の知恩教院(上図、大谷寺)の泉水の項の文中に、「狼狽窟」の和歌があることだ。

 蕪村の2句に先んじて、

「しら雲と見つつも人のむれたつかなべてを花のいただきの山 狼狽窟」

とある。

 先に、俳人で洒落本作者富土卵(とみ・とらん)が「狼狽山人」「狼狽窟」と称したことに触れた。定雅と親しかった土卵も「名家」扱いで登場しているようだ。(この歌の後に、蕪村の「なには女や京を寒がる御忌詣」「御忌の鐘ひびくや谷の氷まで」が続く)。

 

 京の案内書を手掛ける書肆の吉野屋為八、あるいは著者の秋里籬島は、京生まれの定雅や土卵を重用しているように思える。

 

 当時の京の俳諧は、夜半亭与謝蕪村の流れが、蕪村、几董の相次ぐ死で滞ってしまった。晩年蕪村が嫌った名古屋の加藤暁台や、蕪村、几董に破門扱いされた月居が、蕉風中興を唱えて二条家を巻き込み、格式を重んじる二条家俳諧を始めた。東山の芭蕉堂に依拠した加賀蕉門の高桑闌更、成田蒼虬らも二条家宗匠となって勢いづいた。

 

 彼らの近くにあって、距離を保ち続けた定雅は、60歳を越えてから芭蕉堂に対抗するかのように、俳仙堂を立ち上げる。

 

「羇旅漫録」の中で、江戸の戯作者瀧澤馬琴は、京について、思い切ったことを言い放っている。

京の人に滑稽なし、自笑其碩と近年胴脈とのみ。むべなるかな、ばせを(芭蕉)も蕎麦と俳諧は京の地にあはずといへり

 

 芭蕉も言ったように京に俳諧は向かない、と馬琴は滞在中に思ったようだ。馬琴は定雅、土卵とも会っている。江戸の戯作者の目に、当時の京の人たちがどう映っていたのか。

 

 

 

 

 

 

 

捨文事件と二条家

 寛政12年(1800)の大坂俳諧師事件では、結局俳諧師たちにおとがめはなく、その後の活動にも影響はなかった。

 

 私は気になって、捨文の中で「鎮西将軍」に担がれた二条家について知りたくなった。二条家といえば、二条良基以来、和歌の家として知られる。

 

 事件の5年後、左大臣だった二条治孝(1754-1826)は、次期関白の就任を前に、光格天皇から拒否、就任のダメ出しをくらったのだった。

 理由は、「非器」。関白の器でない、というものである。これを受けて、幕府も同様の判断をし、しばらくは鷹司政煕が関白を続けることでしのいだ。

 さらに治孝の後ろ盾だった後桜町院が逝去したのを待つかのように、関白には治孝を飛び越えて、一条忠良が就任した。

 その後、二条斉信もまた、左大臣の後、順番を外されて関白にはなれなかった。

 

 これが、事件と直接関連があったかは分からないが、寛政2年に「二条家俳諧」を始めたことが、不評を買った可能性は捨てがたい。

 

 その前に、二条家俳諧とはどんなものだったか、確かめてみた。

 寛政2年(1790)の当主は斉通(9歳)であったが、その父の左大臣治孝が、二条家俳諧を始めたのだった。

 其成の「二条家俳諧」を読んでみた。其成は二条家俳諧に深くかかわった版元菊舎太兵衛(きくや・たひょうえ)の俳人の号だった。

 

 二条家に招かれて初代の二条家俳諧宗匠御朱印免許を得た加藤暁台、江森月居が、金銭を払ったことも、「御賄金三十両献ず」と淡々と記されていた。

 9月4日円山端寮で予行(習礼)の後、翌5日二条家で「花御会」が開かれ、暁台が宗匠を務め、月居が脇宗匠を勤めた。彼らは、宗匠の「免許服」として、平安装束の紫の水干、白の指貫(袴)、風折烏帽子を着用したのだった。

 此の時の様子は、二条家当主(治孝)が「俳諧衆とは御簾を隔てた間に御出し、俳諧の座は上段と下段に分けられ、宗匠や御所様御名代の諸太夫らは上段に居る。こうした俳席での上下の区別は、俳諧の根本精神を否定するものであった」と、富田志津子氏「二条家俳諧の創始と暁台」(連歌俳諧研究 1996年90号)に記されていた。

 

 其成の書によると、二条家宗匠免状は、同年松岡青羅、高桑闌更にも出され、10月16日に青羅が、翌17日に闌更が「御会」を勤めた。免許服はともに「桔梗さむ服白指貫烏紗巾」と、法衣のようでもある。続いて、月居の推薦で和泉の佐野右稲も宗匠の免許が出された。右稲の免許服は「朽葉色水干白指貫風折烏帽子」で、「御会は不勤」とある。月居が間に立って、金銭で名誉を斡旋する典型例かもしれない。

 

 寛政4年(1792)に、二条家に働きかけて俳諧師への「花の本」免許、宗匠免許を実現させた立役者の名古屋の俳諧師暁台は没する。(前年には宗匠青羅も歿)

 翌年二条家俳諧は、松尾芭蕉に「正風宗師」を追号し、額を作り、芭蕉の墓のある義仲寺と、東山の芭蕉堂に額を寄贈した。井上重厚の義仲寺の芭蕉忌、闌更の芭蕉堂の花供養に、二条家俳諧としてお墨付きを与えたのだった。

 この動きは、宗匠闌更とともに、二条家から「御俳諧衆」の免状を取得し「御俳諧書林」を名乗った菊舎太兵衛の働きもあったのだろう。

 

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 天明期の「蕉門書林」(右)と寛政期の二条家免状を得ての「御俳諧書林」

 

 寛政10年に闌更が没し、同じ金沢藩出身の成田蒼虬が養子に入って芭蕉堂を継承した、その翌々年に大坂で捨文がされたのだった。

 

 富田氏の論文で、京都の俳人で随筆家の神沢杜口(かんざわ・とこう、1710-1795)が二条家俳諧に憤っていることを知った。(翁草)

摂家の御館に俳席を立玉ふは未曽有の事、道のめいぼくに似たりといへども、図らずも俳諧は雲井にのぼり、和歌は地下へ落る事、下剋上の道理にて、誠の道の栄えとも云がたらんか

今や俳諧衰へてさせる宗匠もなき世の中に、かたへの人のそそのかし奉りて、やごとなき摂家の御館にて、あらぬものどもをめされて御興行有は、(中略)唯一時の興に猿楽などをめさるるに等しければ、強ち此道への栄えとも申しがたし

 和歌の本家が俳諧を持ち上げることは、下剋上であり、和歌の堕落であり、摂家の堕落であると声をあげているのだった。

 元京都奉行所の与力であった杜口の考えは、京では特別なものではなかったと思われる。

 一見「三十両」の月居を貶めるような捨文の背景には、京の杜口のような二条家への批判が強くあったのではないか。関白として「不器」とされた要因に、捨文に至る一連の二条家俳諧の京での評判があったと推測される。

 月居への恨みという大坂城代の判定で結局収まった一件は、実は、「二条家俳諧」をめぐる京の俳諧の世界や、公家の間の政治的な駆け引きを含んだ、京の者が引き起こした事件であったという思いがしてくる。

 

 

大坂俳諧師事件と定雅

 京の俳人で洒落本作者の西村定雅が、東山雙林寺で暢気に「烟花書画展覧」を開催した半年前の寛政12年(1800)3月、「大坂俳諧師事件」なるものが持ち上がっていた。雙林寺の芭蕉堂の成田蒼虬も巻き込む騒ぎだった。

 私は全く知らなかった。

 この一件を調べた大谷篤蔵氏「寛政十二年大坂俳諧師一件」(「俳林閒歩」所収・87年刊)の存在を、肥田美知子氏「俳仙堂西村定雅」(2016)を通して知り、読んでみたのだ。実に興味深い事実に、夢中になってしまった。

 

 事の起こりは、大坂・東横堀川の農人橋で、捨文が見つかったことだった。同橋は、大坂城への連絡口に当たることから、幕府が管理する公儀橋であり、奉行所へ密告する捨文の置き場所として格好だった。

 3月28日、橋の勾欄の外で見つかった捨文は、油紙で包んだうえ、挟み板で抑え、短刀に苧縄で結び付けられ、「御本丸御用」としたためてあった。

 

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 中身は、大坂の俳諧師・月居が、全国の俳諧師に発信した文書の体裁で、大坂石山城へ京の公家二条殿を移し、鎮西将軍として奉り上げるため、軍用金30両ずつ提出するよう求める、物騒な内容だった。

 35人の俳人の名と住所が書かれており、その中には江戸の夏目成美、名古屋の井上士朗、浪花の大伴大江丸ら著名な俳諧師が含まれていた。

 

 大坂城代は、幕藩体制に挑戦する不穏な企てとして、江戸の老中に報告し、探索を開始したのだった。

 

 大坂の俳諧師14人を軒並み調べ上げると、相応に暮らしぶりもいいし、風雅を好み、武術などを学んでいる様子もない、と報告があがった。

 

 発信者の月居の確保を目指したが、転々としており、大坂のほか転居先の京、若狭小浜まで厳しく探索したが、本人を見つけられなかった。

 

 荒唐無稽な内容の為、名前の挙がった俳諧師へ恨みを抱く者によるものではないか。その線の探索も進められた。大坂の俳人魯隠は、かつて、店(かぢ作)の手代に訴えられたことがあった。奉行所に取り上げられなかった手代は江戸に行き、老中に駕籠訴し、50日の手鎖になった事実が浮かんだ。(結局無関係と判明)。

 

 次いで、京の探索に入った。

 捨文に名があった京の俳諧師は雙林寺芭蕉堂の二代目となった成田蒼虬。その門人鹿古、閑叟の計3人だけだった。

 鎮西将軍に担がれたという、二条家は、公家五摂家のひとつで、24代当主斉通が寛政10年に没して、12歳の斉信が25代当主となっていた。

 捨文には、30両の取次世話人として楠山、宇河、杉山の3名の名があり、彼らを京の者と当たりを付けた。「京都の堂上方武家方と見当をつけるが見当らず」(大谷氏)。地下官人、武士を探したが見つからなかった。

「宮様方を再度聞合せても不明、三度堂上方出入、御用達の町人までも似寄の名前を聞合せるが遂に不明に終る」

 

 探索の途中、恨みを買った俳諧師が月居であることが、分かってきた。月居と二条家に関係があり、捨文の「三十両」に関しての附合に気がついたのだ。

 寛政2年二条家(斉通の代)で、二条家俳諧が行われたが、その際、月居が二条家に招かれ「右方宗匠」という御朱印免状を得ていた(左方宗匠は名古屋の加藤暁台)。

 それも、実力で択ばれたのではなく、お金で宗匠になったことが、其成「二条家俳諧記」に記されていた。「(暁台、月居)二子とも御館入御賄金三十両献ず」とあり、30両という大金で俳諧宗匠の地位を得たというのだった。

 

 宗匠という箔をつけた月居は、当時大流行だった諸国発行の「俳諧師角力番付」の上位にランクされるばかりか、その判定人「行司」の仕事も舞い込んできた。

 東西の番付の地位は、俳句で暮らす全国の俳諧師匠にとって死活問題だった。大谷氏は「書肆と結んで俳諧師番付を拵えるなど、いかにも月居にありそうなことである」と書いている。

 

 2か月後に大坂城代が出した結論は、捨文は虚偽であり焼き捨てるという決定だった。「この捨文の正体を見抜いて、全くの拵え物であるとし、当時流行した見立て番付の一種である諸国俳諧番付に除かれたかあるいは下位に位置付けされたものが、その報復手段として番付編者を陥れるためにかかる怪文書を捏造したものと推測している」(大谷氏)。

 月居の判定を恨んだ俳諧師の仕業と判断したのだった。その人物は特定されなかった。

 その後、月居は復活し、大坂で変わらず大物俳諧師として活躍した。

 

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 番付というのはどういうものか。WEBで見つけた上田市立博物館蔵の文政4年(1822)の俳諧師角力番付には、東(諸国)、西(江戸)と分かれ全国の俳諧師の名が連ねてあった。江戸・浅草で出されたものだった。

 東の最上位は「大坂 月居」。大きな活字で書かれている。3番目は芭蕉堂の蒼虬。諸国でトップの俳諧師として月居は判定されていたのだった。

 判定する行司が3人いて、1人は「捨文」に名のあった月居の仲間、大坂の長斎だった。

 俳仙堂西村定雅の名は、5段ある番付の内3段目の5人目に小さな字で記されていた。京の俳諧師では雪雄、梅價などより下位の5位ということになる。実力とは無関係の当時の俳壇が伺える。

 

 定雅は「捨文」に名が書かれておらず、月居とは一定の距離を取っていたと推測される。「睟」を唱える京の俳人にとって、番付に関心を持たなかったかにも思える。

 

 それにしても、念入りの捨文はどこのだれが書いたのだろう。大坂城代は、結論に当たって、ヒントとなる4点の俳諧師番付を添えたが、それらは今に残っていないのだという。

 

 

 

 

 

 

芭蕉蛮刀図と定雅

 寛政12年(1800)に京・東山の双林寺境内で開催された「烟花書画展覧」の会について調べていて、妙なことに気づいた。まずは、会を振り返るとー。

 

 この催しには、俳人で洒落本作者の西村定雅が出品したが、主たる出品者は、賀楽狂夫という人物だった。

 吉野太夫の遺品の蟹酒盃、煙盒、黄金笄、柿右衛門作吉野泥像など、目を惹く展示物はこの人物の所有だった。

 目利きだったのだろう、江戸でも注目されだした尾形光琳の画軸も出品した(「光琳節分夜於花街所画宝船」)。 

 本名は、立入(たてり)経徳(1755-1824)。中務大丞大和守を名乗っている。京の俳人であった近衛将監の富土卵とともに、地位の高い地下官人だったようだ。

 

 この賀楽狂人が「睡余小録」(京・平安書林、文化4年=1807年刊)に関与しているのを知った。この書には、信長の釜、宮本武蔵の印章など、興味深くも眉唾な骨董が掲載されている。東都の山白散人が「選」、皇都の賀楽大人(狂夫)が「付録」と、江戸の山白散人、京の賀楽大人がそれぞれ集めた品々を絵入りで紹介している。

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 以前、私がこの書に関心を持ったのは、芭蕉が持っていた「芭蕉蛮刀図」=下図=なるものが掲載されていたからだった。京・嵯峨野の落柿舎を訪れた芭蕉が携帯していた刀で、門人で庵主の向井去来に譲られ、三代目庵主の山本氏の許可を得て山白散人が写したと書かれている。一目でにせもの臭いと思った。

 

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 人物事典では、山白散人は、河津山白という京の人物で、書画の鑑定にすぐれ、文化4年(1807)10月17日歿とある。名は吉迪。字は子彦。

 東都の人でなく、京の人ということになる。「睡余小録」を刊行した年に没したことになる。

 

 今回、「睡余小録」の付録で、賀楽狂人が先の「烟花書画展示」の会で展示した所有物を紹介しているのに気づいたのだ。柿右衛門作吉野泥像=下図=、吉野太夫手簡(てがみ)・・・。「睡余小録」の付録は、賀楽狂夫の書画展示の出品目録のようだった。

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「烟花書画展示」と「睡余小録」との密接な関係に気づいて「烟花書画展示」の目録をもう一度見てみた。山白散人こと、河津氏出品のものがあるのではないか。

 あった、巻軸の部、遊女手鑑の出品物2点だけ。西村氏と河津氏と交互に出品者名が並んでいた。西邑氏の名も交っていた。

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延宝中遊女手鑑   巷菱屋

同別本 手鑑    河津氏

元文中同手艦   西邑氏

享保中同手艦   河津氏

元文中同紙短冊手艦  西村氏

宝暦中同手艦     同

 

 あれほどの収集家の河津氏の出品はこれだけだ。西村、西邑、河津・・・。

 私は妙な気がして、今度は「睡余小録」を見直した。

 書画展示の会で西村定雅が出品したはずの八千代と小藤の艶書が、山白散人によって絵入りで紹介されていた。

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 説明には、「西村出羽守正邦」のものと記してあった。西村正邦は、「睡余小録」に序文を寄せている「西村勘解由判官出羽守正邦」のことらしい。眉唾の人物である。

 

 山白散人は本当に実在したのだろうか。

 西村定雅が、山白散人になりすまし、西村勘解由判官出羽守正邦もまた、定雅の偽名ではなかったか。西村氏、西邑氏、西邨氏、そして河津氏。みな定雅だった。

 こう考えると、筋が通って来る。定雅は、東都の山白散人を名乗って、「睡余小録」をものしたのだ。双林寺で烟花書画展示を共催した賀楽狂夫とともに、その展示会を下敷きに信長の釜、大石良雄の手簡など追加して披歴したのが、「睡余小録」であると。

 

 怪しげな芭蕉の蛮刀は、俳仙堂の設立を目指す定雅が、芭蕉のゆかりのものを探しているうちに見つけたものだったのではないか。 

 定雅という人物は、結構面白い人物だった、そんな思いが膨らんできた。

 

 

定雅が出品した烟花書画展示の会

 戯作者の瀧澤馬琴は、生涯1度だけ京・大坂を旅したが、その様子は翌享和2年(1802)「羇旅漫録」に記し、さらに漏れたものを「蓑笠雨談」(享和4年)に収めた。

 滞在中に馬琴が会った京の俳人で人気洒落本作者の西村定雅(1744-1827)の名は、「羇旅漫録」についで、「蓑笠雨談」にも出てくる。

 芭蕉堂のある東山双林寺で、寛政12年(1800)9月25日に開かれた「烟花書画展覧」の会の展示目録を同書に馬琴が写していて、出品者として定雅の名が記されていたのだ。

 

「烟花」は、花火でも春霞の景色でもない。花柳、遊郭だ。京・島原、江戸・吉原などの遊女の手になる書画、あるいは衣装や器など、ゆかりのものを展示する催しだった。俳諧の催しで知られた寺院の境内で開かれたことも興味深い。

 

 展覧会には63品が出展されたが、そのうち定雅所有の確かなものが、6点ある。

 

1)書軸「吉原花扇之筆・安永年末ノ書」

 吉原花扇とは誰か。寛政年間に、喜多川歌麿が浮世絵に描いた吉原・扇屋の遊女4代目花扇だった。「高名美女六家撰」と「当時全盛似顔揃」の両方で登場している。

 面長で口は小さく、目も細い。残念ながら私には、他の美女との区別がつかない。ただ、「高名美女六家撰」の絵柄は、右手の指の間に筆を挟み、左手で掴んだ巻物に、思案しながら手紙を書くポーズが選ばれている。彼女の筆跡は評判だったようだ。

 定雅の出品した花扇の書は、そういう意味でも価値あるものだったと想像できる。「安永末」年(1781)の書ということは、浮世絵が摺られた寛政年間(1789-1800)より10年ほど前。若き日の花扇の書を所有していたことが分かる。

 

f:id:motobei:20220203145243j:plain 歌麿が遊女花扇を描いた浮世絵の右上隅に、絵で「扇屋花扇」の名が。扇と矢、花と扇

 

2)画軸「寄生(やどりき)自画賛」

 私には、見当がつかない。

 

3)巻軸「八千代小藤艶書和歌二巻」

              「元文中遊女色帋短冊手鑑」

             「宝暦中遊女手鑑」

 初めのものは、八千代と小藤という遊女の和歌による艶書、つまりラブレターなのだろう。

 後の2つは、元文年間と、宝暦年間の人気遊女の筆跡を集めてまとめた折帖のようなものか。アーカイブで別の「遊女手鑑」を見たところ、遊女の名を小さめに記した後、百人一首から自ら択んだ和歌を、奇数ページから裏ページにかけて、それぞれ特徴ある字で書いてあった。

 

4)器玩「西洞院廓饌具」

 京には、各所に廓があったようだ。西洞院の東側にもあったらしい。そこで使われた食器を定雅は持っていたことが分かる。

 

 さらに、西村氏ではないが、西邨氏所有とされたものがある。

 

 器玩「印章二顆」

 島原の吉野太夫の2個の印章。吉野太夫は2代目(1606-1643)が歴史上の人物として著名だが、10代目まで続いたらしい。寛政年間にはもう存在していなかったようだ。2代目のものなのだろう。

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 2代目吉野太夫といえば、太夫が好んだことで、名がついた吉野窓の丸窓が思い浮かぶ。印章にも拘りがあったろうから大変興味深い。

 

 西村、西邨氏のほか、西邑氏所有のものが2品ある。長谷川長春遊女之図元文中遊女手鑑。これらも、西村定雅所有の可能性がある。

 

 この催しには、屏風3品、衣裳3品とそれらしい華やかな展示物もあったが、不思議なのは展示のなかでは、遊女たちの書がもっとも関心を持たれている様子であることだ。

 現代の人気スターのサインのようでもあり、少し違うようにも思われる。私には、江戸時代の遊女、遊郭の世界と、それを取り巻く男たちのことがよくつかめない。

 ただ、定雅が、花柳界に深く入り込んでいたことは間違いない。

 

 

 

 

芭蕉堂の花供養

 京都東山の真葛が原にある芭蕉堂は、天明7年(1787)刊行の「拾遺都名所図会」に、大雅堂などとともに紹介され、絵の右隅に小さく描かれている。

 

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 俳人の高桑闌更が天明3年(1786)、西行芭蕉ゆかりの地、双林寺の境内に自ら庵を構え、芭蕉堂を建てた。同6年3月12日から、芭蕉堂で「花供養」の催しを始めたのが、話題になったのだろう、こうして「図会」で早々と紹介されている。芭蕉堂には、芭蕉像が安置された。

 

 第1回花供養には、芭蕉の遺志を継ぐ俳人が、対馬など全国各地から参集した。(舞鶴市郷土資料館・糸井文庫の史料による)

 京は、天明8年(1788)に大火に見舞われ殆どが焼き尽くされたが、幸い真葛が原は被害なく、参加は年々増え1000句を超える賑わいとなっていった。

 京に住む西村定雅は初年に「迷ひても世は面白き桜かな」の句を奉納。富土卵は、寛政2年に「欲ふかき人の出る日や花ぐもり」を作り、以来花供養に参加している。

 

 始まって間もない寛政2年(1790)を見ると、伊勢から14人、若狭から24人、能登から17人、石見から12人、長州から13人、奥州から5人と、地方から続々と参集していることが分かる。

 三条通御幸町にあった菊舎太兵衛の「蕉門書林」が、「花供養」で奉げられた句をまとめて刊行し、彼らから掲載料を取った。それが、芭蕉堂の運営資金に回ったのだろう。

 時代は下るが、天保ごろと思われる菊屋平兵衛の湖月堂の花供養の案内文書には、掲載料が出ていた(糸井文庫の史料)。発句なら金一朱(小判1両の8分の1)、歌仙なら南鐐五片(二朱銀5枚=一両の8分の5)。表(歌仙の表6句のことか)は、南鐐一片とある。

 芭蕉堂は春(花供養)、秋(月の舎、10月12日芭蕉忌)と年2回芭蕉を偲ぶ会を開催しているので、資金はかなり集まったと想像される。

 

f:id:motobei:20220121192753j:plain 闌更

 

 芭蕉没後、江戸中期から地方で育っている蕉門の俳壇が、芭蕉堂の催しを支えたのだろう。

 私は、地方での蕉門俳壇の形成に、伊勢の御師が一役買ったということを、菊池武氏「近世における俳諧師と遊行家~特に北陸地方での安楽坊春波法師の活動について」(印度学仏教学研究44)で教えられた。

 

 伊勢の御師は、各地に飛んでは、「伊勢講」を組織。伊勢参りの計画を立て、伊勢では自分の宿坊に迎え入れて、参詣の世話をした。平安時代の熊野詣以来の、御師のシステム。現代の旅行代理店のようでもある。

 

 同氏によると、伊勢の御師は地方の檀那回りをする際、俳句の指導もかねたという。「(伊勢の御師が)俳諧指導を兼ねたという事実は伊勢派の乙由麦浪父子に見られるように決して珍しくなかった」。

 とくに、伊勢山田の御師の手代だった安楽坊春波(幾暁庵雲蝶)は、蕉門美濃派の各務支考(あの、不猫蛇と悪罵された)に俳句を学び、上記の乙由に随って地方を回り、やがて独り出家剃髪の姿で俳諧行脚した。西国、九州、四国を回り11年間で「八百余人の門人」を作り、帰郷後、京、北陸と8年間巡り、「入門盟約の徒二百有余人」に及んだという。

 

 伊勢講の御師のノウハウを、地方俳壇の組織作りに活用したのだろう。乙由、春波の伊勢派と、支考の美濃派の俳壇拡張の理由はここにあったのではないか。

芭蕉の没後伊勢派と美濃派俳壇が田舎蕉門と蔑視されながらも、庶民的に分かり易い『俗談平話』を以て中期以後、『ちかき年世上にはやり過、人のめしつかひの小者下女までもいたさぬといふ事なし』(西鶴織留巻三)と云はれる様に全国各地の大衆の中に広範に流行し、甚だ強固な俳壇勢力を結成していったのである」(菊池氏上掲論文)。

 

 地方門人の組織化のためには、芭蕉ゆかりのものが格別の効果があったのだろう。菊池氏によると、明和4年(1767)に、京の俳人蝶夢が大津の芭蕉墓の土を拝借して、自ら丹後宮津に運んで「一声塚」を作っている。その際、地元の俳人と句を奉納し、京の橘屋治兵衛から俳諧撰集を刊行した。

 同じように、寛政5年(1793)、丹後田辺に芭蕉墓の土を持ち込んで「烏塚」を作り、橘屋治兵衛が「烏塚百回忌」を刊行。俳人と板元が組んで事業を企画するパターンが見て取れる。

f:id:motobei:20220121192904j:plain許六

 芭蕉堂に戻ると、闌更が、蕉門の森川許六が桜樹で作った芭蕉像が芭蕉堂に必要だったわけが理解できるように思う。

 像は、彦根藩の許六が彫り、晩年芭蕉の世話をした俳人智月尼に、礼を兼ねて贈ったもので、同尼の没後、従者の尼が故郷の越に持ち帰り、農家、医師と所有者を点々としながら、闌更の門人の手に渡り、闌更のもとへ届けられた、と「名所図会」に書かれている。

 興味深いのは、別の伝で、宝暦年間の初め、あの御師出身の安楽坊春波が九州行脚の折、笈に納めて小倉に持って行ったとされていることだ。本当なら、一時は春波が所持して九州の門人組織化に、芭蕉像を活用したことになる。

 

 芭蕉堂につぐ、京・東山の西村定雅の俳仙堂の創建や、定雅が岸駒に依頼した芭蕉涅槃図の作成といい、同じような流れでみると、とても理解しやすい。

 

「許六刀芭蕉像」は、今芭蕉堂で見られる彩色像とは違い、6寸ほど20㌢にも満たない小さなもの。時々は公開されているのだろうか、芭蕉堂が所有しているようだ。