長塚節「土」に描かれていた猫除けの迷信

 通夜に、決して猫を近づけない風習について「民族と歴史」(大正11年3月号)で知り、韓国・晋州の報告例と、日本の相模地方の類似について8年ほど前に書いた。

 

 その後長崎県壱岐島で、似た事例があったのを「壹岐島民俗誌」(昭和9年)を読んで気付き、3年前に書いた。

 

f:id:motobei:20210727121055j:plain ホウセンカの装幀の「土」

 

 それより前、明治45年5月に上梓された長塚節の小説「土」に、似たような事例が描かれていたのを、今頃知った。画家森田恒友が「土」に感動し、長塚にエールを送って親交を深めたことを知り、名作「土」を読みだしたところ、次のような個所が出て来たのだ。

 

「輿吉は獨り死んだお品の側に熟睡して居た。卯平は取り敢へずお品の手を胸で合せてやつた。さうして機の道具の一つである杼を蒲團へ乗せた。猫が死人を越えて渡ると化けるといつて杼は猫の防禦であつた。杼を乗せて置けば猫は渡らないと信ぜられて居るのである。

 

 茨城県の鬼怒川西部(現・常総市)の農家を舞台に、働き者の貧農一家の苛酷な生活を自然、風土の中で描いた作品。妻お品の死が早々と描かれ、母の死を知らずに眠る幼児輿吉を起こさず、父卯平が、猫除けのために遺体の上に、織物の道具の「杼(ひ)」を乗せたことがさりげなく書かれていた。

 

 杼は、織物で経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を通す道具。英語でSHUTTLEと呼ばれように、杼は経糸の間を往復され布が織られてゆく。

 

 以前知った壱岐の例は、桛(かせ)が置かれるものだった。

「息を引き取るとマクラナラシと云って北枕に直し、顔には手拭をかぶせて、夜具の上にカセを置く。猫が屍を越えるとよくないと考へられて居て、其の為の呪ひらしい。猫も直にかこふ

 

 カセは、紡いだ糸を巻き取る道具で、やはり織物の道具ではある。

 

 茨城   杼

 壱岐   桛

 

 杼もまた、緯糸が巻かれているので、共通点は、糸が巻かれている道具ということになる。

 

 以前書いたのは、韓国・晋州の例は、猫が寝具ばかりか遺体が置かれた屋根の上や、床のオンドルの下に入っても、死人が立つという迷信だった。対策は猫を縛って動かないようにするか、オンドルに栓をして潜り込まないようにするというものだった。

 

 その時、中国・北京の通夜の風習についても書いた。(「北京風俗図譜」)

 北京では、猫が出てこないものの、通夜の時、死体は起き上って家族を追い掛けまわし、悪霊がついて悪さをすることがあるので、麻で遺体の脚をゆるく縛り、立ち上がれないようにする風習があることも付け加えた。

 

 遺体が立ち上がらないために、

 猫を縛って遠ざけるか(韓国)、

 遺体の脚を縛るか(中国)。

 

 日本の例は、中国、朝鮮半島の両方の風習が、混淆して伝わったのではないかと、今回思った。

 蒲団の上の杼やカセの糸は、遺体の脚を縛るもので、本来は猫を避けるものではなかったが、日本で農家がネズミ対策で猫を飼うようになった江戸時代、糸を蒲団の上に置き、それが猫除けになるとの、独特の通夜の風習が生まれたのではなかったか。

 

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 猫を眺めながら、なお考える。

 壱岐、相模、茨城と風習が拡散していることから、なにか江戸時代に広めた存在があったのだろう。それを知りたいが、今は見当がつかない。

 

 

 

 

 

銀猫と仔犬

 高山寺のことを調べていると、近所の神護寺とともに京の山中の一寺院でありながら、12-13世紀の文化発信の重要な拠点だった、と思うようになった。

 

 結論を急がず、一歩一歩進んでいくとー。

 

 運慶の長男湛慶が高山寺の木彫を手掛けた嘉禄元年(1225)には、絵図でも重要な作品が完成した。同寺の羅漢堂に納める仏画十六羅漢図」。詫磨派の絵師詫磨俊賀が描いた。

 

 詫磨派は、宋の絵画技法を取り入れた一門で、洛中に拠点があったが、俊賀は前年の貞応三年(1224)、高山寺神護寺から山道を下った梅ケ畑にある平岡へ工房を移転した。

 

 明恵の叔父で真言密教僧、浄覚(1147-1226)が俊賀のため平岡に屋敷を用意し、高山寺の長期にわたる仕事に専念させたのだった。(1232年には、「五秘密曼荼羅」を完成)

 

高山寺プロジェクト」とでもいおうか、高山寺充実のため、資金集めと技能者集めに辣腕をふるっていたリーダー格の浄覚という人物が浮かんでくる。

 

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高山寺の宝篋印塔(山川均「石造物が語る中世職能集団」)
 

 このころ高山寺に日本最古級の宝篋印塔が2基作られた。1220年頃の作とされ、今も明恵の墓(五輪塔)覆堂の周りにある(「明恵髪爪塔」と言われている)。福建省泉州周辺が発祥の石塔で、南都再建のため中国から移住した石工集団「伊派」が制作したものだ。

 

彫刻=「南都仏師」の流れの湛慶

絵画=詫磨派の俊賀

石造=伊派石工集団

 

 浄覚は、当時最先端の宋の技法をもった職人たち(あるいは芸術家)を、高山寺に集結させたことが分かる。

 

 この浄覚の親分格が、神護寺を復興させた文覚(もんがく)上人(1139-1203)。浄覚は文覚の弟子で、文覚はよりスケールの大きなプロデューサーだった。

 

f:id:motobei:20210718095458j:plain文覚上人(「神護寺中央公論美術出版

 

 文覚は、「平家物語」に登場する。北面の武士だった文覚は源渡の妻を誤って殺して出家。仁安三年(1168)、衰退した神護寺を訪れ、空海霊場の再建を決意した。荘園寄進を求め座り込みを行い、後白河法皇の勘気を被り伊豆に流されたが、そこで同じ流謫の身の源頼朝と運命的な出会いをし、平家討伐の挙兵を勧めたと伝えられる。

 京に戻った文覚は、後白河から荘園寄進の取り付けに成功、頼朝から寿永三年(1184)に寄進を受け、神護寺の修理、造営を進めた。

 

 この文覚に9歳から身を寄せ修行したのが明恵であり、交流があったのが、同じ北面の武士出身の西行だった。

 

 文覚は、頼朝の依頼に応えて鎌倉の寺院建設に協力した。

 頼朝が亡父義朝のため、文治元年(1185)に勝長寿院を建立した際、奈良の仏師成朝と京の絵師詫磨為久を招くことができたのは、文覚が間に立ったためだと考えられている。翌年には成朝の孫弟子の運慶が、東国へ行き、伊豆、相模の寺院で造仏に専念した。

 

 詫磨派の研究者の論文を読んでみた。

 

「詫磨派の活動を概観するならば一二世紀以前の詫磨派即ち第一期詫磨派は幕府関係の制作が多く、一三世紀以降の第二期においては、高山寺神護寺での活動が顕著になる。それは、制作依頼者が頼朝に仕えた文覚から、神護寺を復興し、高山寺明恵を育てた浄覚へと交代したことを示しているのであろう」(藤元裕二「詫磨派研究」平成21年)

 詫磨派の絵師の起用も、文覚(鎌倉寺院)―浄覚(高山寺神護寺)と受け継がれたことが分かる。仏師や石工たちも同じように考えていいだろう。

 

 私が注目するのは、頼朝が詫磨為久や成朝を鎌倉に呼んだ時期。文治元年は、西行に銀作猫を頼朝が賜った前年であることだ。

 頼朝が手に入れた銀作猫は、勝長寿院建立のため、鎌倉入りした詫磨派、南都仏師たちの集団から、渡ったものではなかったか。

 

 鎌倉の銀作猫と、高山寺の犬の彫刻は、文覚、浄覚とその周辺の仏師、絵師たちの中から生まれたものであり、やはりつながっていて、響きあっているのではないか、と思う。

 

 

 

 

 

仔犬と童子と湛慶と

 高山寺の仔犬について調べるのに、なにから手を付けていいのやら。

 

 栂尾の高山寺は、今は京都駅からJRバスで55分ほど。簡単に行けるようになった。昔は、高雄の神護寺の先にあるこの山寺は遠かったはずである。

 

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 大正11年に鉄道省が発行した「お寺まゐり」が手元にあるので、高山寺の項を探してみる。

 高山寺へのアクセスは、「神護寺参照」とあり、神護寺からの行き方だけ書いてある。「神護寺から槇尾西明寺を経て、更に四五丁下れば高山寺である」。簡単そうだ。

 

 だが、神護寺の項を見ると、「山陰本線花園駅から西北一里二十四丁、俥賃二圓、妙心寺、御室に詣で、宇多野、平岡を経て行くのである。道は殆んど平坦で徒歩でも一時間半で行ける」

 周山街道を登る。一里二十四丁は、約6キロ600㍍。しかも途中から登り坂がうねうねと続く。人力車は行ったようだが、徒歩で1時間半で到着するのは、よほどの健脚だろう。

 また、「嵯峨駅から清凉寺大覚寺を経て長刀坂を超え平岡に出ても行かれる。此方は前よりは十丁位は近いが、約十丁の長刀坂があるので俥は通じない」

 広沢池の北の長刀坂を上がれば、1キロショートカット出来、平岡八幡宮のある平岡で周山街道に合流する。

 

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 当時の大尽たちは、自動車で乗りつけたようだ。「京都駅から自動車に依れば賃金十二圓」。

 京都駅から「市内電車で北野に下車すれば、北野から二里には足りない。俥賃二圓」。こちらは中産階級の旅行者向きのようだ。

 

 とにかく、高山寺は山寺ではあるが、若狭から京都へ日本海の海産物を運ぶ動脈の一画に建てられ、京都への交通の便は決して悪くない位置にあったと考えていい。

  明恵上人は1206年(建永元年)、後鳥羽上皇(15年後に隠岐へ流される)からこの栂尾の地を賜り、高山寺を創建したのだった。

 「栂尾の寺は高雄神護寺に比べると山間につつましく立つ寺だ」「松吹く風の音にもさうした高僧の住寺にふさわしい情趣を感じる」と川勝政太郎は、「京都古蹟行脚」(昭和22年)で寺の印象を書いている。さらに、

「開山堂安置の明恵上人坐像(宝・鎌倉)がある。京都博物館出陳の、善妙神立像・白光神立像(宝・鎌倉)は鎌倉時代の艶麗の小神像である。狛犬三対(宝・鎌倉)の中には、嘉禄元年(一二二五)の墨書が台裏にあるのが二つあり、小さいがすぐれた彫刻である」と、寺に伝わる木造、木彫を紹介している。

 

 善妙神立像  高さ31.5cm

 白光神立像    41.5cm

 獅子狛犬の一対  27.3cm  26.4cm

 

 これら小さな木彫と同じように、狗児の木彫も、高さは25.5cmと小さい。

 狗児もまた、高山寺所蔵の一連の彩色木彫の仲間と考えていいのだろう。

 

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 作者については、「近来の研究によれば、高山寺の善妙神像・白光神像・狛犬などの小彫刻も湛慶の作ではないかと考えられるようになった」(毛利久「運慶と鎌倉美術」昭和39年)と、湛慶という名を出していた。湛慶と言えば、鎌倉の写実彫刻の代表格運慶の長男(6人の男子がいた)だ。

 

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 狗児もまた、湛慶作とするのが自然であろう。湛慶作品を探してみると、高知・雪蹊寺に残る善膩師童子像(高80cm)に行き当たった。

 狗仔の縋るような眼は、この童子の眼ともつながるように思えた。狗児は、やはり湛慶の作ではないかと。

 

西行の猫と明恵の仔犬

 もう7年も前、私は、西行法師が71歳の時に17歳の明恵上人と会った、と軽率に書いた。これが怪しいことが、今回の銀猫探索で分かった。

 

    2人が会ったことは、明恵の弟子喜海が書いた「明惠上人伝記」に記されている。そこで、確かめてみた。

 

 西行は出てくるが、対面の日時は書かれておらず、「常に来りて」とぼかされていた。

 明恵の許に、西行はいつも来ては会話し、歌を一首読むのは、仏像一体造るようなものだ、などと語っていた。

 長々しく、西行の言葉を記した後、西行の和歌一首を紹介。最後に、自分はその場に立ち会って一部始終聞いた通り書いたのだ、と喜海は付け加えている。「喜海、その座の末に在りて聞き及びしまま之を註す。」

 

 ついつい、信じてしまう。この文章から類推して、平泉から戻った西行が寂滅の前の文治四年か五年に、明恵と対面したという説が出て来たのだった。

 川田順もまた「西行」の中で、

「文治五年(七十二歳)」

此ノ年或ハ前年、西行栂野ノ高弁を尋ネテ

 山深くさこそ心はかよふともすまであはれは知らむものかは

 ト詠ジタル由、明恵上人伝記ニ出ヅ。事実ナラバマコトニ面白シ。」と記した。高弁は明恵のこと。

 

 この個所を読んだ宇野栄三氏が、川田の「西行」を書評して、明恵が栂尾に高山寺を建てたのは建久十年であり、その時すでに西行は他界していたと指摘した。川田も認め、事実でなかったと納得した。 

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 果たして「明恵上人伝記」は、いつ書かれたのだろう。ネットでは調べきれないので、「明惠上人伝記・平泉洸全訳注」(講談社学術文庫、1980年)を取り寄せた。

  平泉曰く。「本書は、上人の弟子義林坊喜海の著述らしく書かれてあり、一般にはそのように信ぜられてきた。しかしそれは仮託であって、喜海の没後、上人の徳を慕う人が、名を喜海に借りたに過ぎないものである

 というのは、伝記には、喜海没して30年後の出来事が書かれ、喜海なら間違うはずのない事実無根の記事があるため、だとしている。

読者に多大の感銘を与え、殊に江戸時代には、寛文五年(一六六五)、宝永六年(一七〇九)等、たびたび版を重ねて、ひろく普及したものである」と、正確なものではないものの、上人の考え、生涯を分かりやすく描いて流布した価値ある本ということになる。

 二人の対面に立ち会ったという記載についても、喜海は明恵より五歳年下であり、明恵の弟子になったのは建久九年(1198)。西行は建久元年(1190)に亡くなっていたので、「全く信じられないものであることは明瞭である」と断定していた。

 

 ただ、西行明恵とかすかなつながりはあるのだ。

 明恵は両親を亡くし、9歳で出家し、高雄の神護寺の文覚上人について修業した。

「井蛙抄」には、西行が高雄に文覚上人を訪ねた逸話が伝わっている。

  また「伝記」には明恵が文治四年16歳の時、東大寺戒壇院で具足戒を受けたと記される。東大寺再建のため平泉へ勧進に出た西行はこの年あたり、東北から戻っている。東大寺に報告に行ったに違いない。

 

 明恵が愛玩したとして、栂尾・高山寺に伝わる仔犬の木彫「狗児」がよく知られる。この「狗児」と、西行の貰った銀作猫が、宋代の影響を受けた写実的な動物像として、遠く響きあっている、というあいまいなことまで私は、前に書いた。

 

 明恵上人伝記を読むと、動物にまつわる話が沢山出てくるのに驚く。動物との交感能力が高く、修行の最中に、小鳥の異変、蟲の異変を感じ取って、侍者に小鷹に襲われた小鳥、水に落ちた蟲を助けに行かせたことが書かれている。

 神護寺へやって来た9歳の時、亡くなった両親を忘れられず、「犬鳥を見ても、我が父母にてや有るらんと思ひ」「或時、思ひかけず、犬の子を越えたること有りき。若し父母にてや有るらんと思ひて、則ち立ち帰りて拝みき」と書かれている。

 この挿話もまた、高山寺の仔犬の木彫から生まれた後世の作り話なのだろうか。

 

 銀猫探しは、狗児の謎へ続いてゆく。うちの猫は付き合いきれないという表情をしている。 

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「銀猫」探しは続く

 郵便受けを覗きに出ると、本が届いていた。

 川田順西行研究録」(昭和16年10版、初版は同14年11月)。ざっと目を通すが、期待した記述はなかった。

 

 銀猫について、あらためていきさつを以下のように書いていた。

 

南都東大寺は治承四年十二月平重衡の兵火に罹って焼亡したのを、同寺の住僧俊乗坊重源(法然の弟子)が後白河法皇院宣を奉じ、再建の経営に任じ、諸国に大勧進を行ひ、東は蝦夷の地に至るまでも寄付金を募集した。

   我が西行は重源から頼まれて、同族の藤原秀衡に沙金の喜捨を勧めるべく、奥州平泉へ下った。伊勢を発足したのが文治二年秋立つ頃、彼六十九歳の頽齢であった。八月十五日鶴岡八幡宮に巡礼し、図らずも頼朝に見付けられて営中に召され、歌道や弓馬のことを談った。その夜は営中に泊められ、翌正午辞去の際、頼朝から引出物として「銀作猫」を賜はった

 

 東大寺再建に賛同した69歳の西行法師(佐藤義清)は、佐藤家の宗家、平泉の藤原秀衡に寄付を求めに旅に出た。途中、鎌倉の鶴岡八幡宮を詣でていると、源頼朝に見付けられて、一泊。歌や流鏑馬など、さしさわりのない話をし、翌日引き上げるとき、頼朝が高価な銀製の猫を引出物に手渡した。 

 

銀製の猫、貴重なればこそ、佐藤一族の前家長、日本一の歌僧に対して、六十六国総追捕使から引出物にしたのである。西行は営門を出ると、それを往来の児童に与へて、奥州に急いだ」。

 

西行を好きな人は、昔も今も、多過ぎるほど多い。霞をくらひ露を吸ふ仙人と同列に視て、(それは莫迦げた誤解だが、)そこが面白いと、面白がる人がある。頼朝から贈られた銀猫を路傍の児童へ与えて去ったのを、やんやと嬉しがる人もある。」

 しかし、奥州まで行脚する粗末な袈裟姿の僧にとって、「銀猫などは食料にもならず、いたづらに荷厄介なしろものだ。そんな物をくれるとは、「拝領の頭巾梶原縫ひ縮め」と川柳子から敬意を表された、有名な頼朝の才槌頭も案外活(はたら)かな過ぎる。西行ならずとも、私でも、そんなものは児童にくれてやったに相違ない。」

 

 重いものを持たせるとは気が利かない。自分も西行の立場だったら、子供にあげたというのである。

 

 一方で、「文治三年十月二十九日、秀衡病歿し、中尊寺金色堂内に木乃伊として納められた。翌々年閏四月三十日、泰衡は衣川館を襲って義経とその妻女・家人等を殺した。けれども頼朝は、泰衡が義経を長くかくまって置いたことを口実として、奥州征伐を決行した。同年八月二十一日、泰衡は平泉館に火を放って蓄電した。

 翌二十二日、頼朝その焼跡に往くと、坤(ヒツジサル)の隅に倉廩一迂火を免れて残ってゐた。葛西清重・小栗重成等をしてこれを検分せしめたところ、紫檀厨子・犀の角・象牙の笛・瑠璃の笏・金の沓・金の華鬘・蜀江の錦の直垂・金造りの鶴等々の珍宝、さうして銀造りの猫もあった」。

 

 「西行は銀製の猫を児童に与へず、墨染の袖に大切に包んで、奥の秀衡への引出物に利用したのかも知れぬ」。

 

 川田は、銀猫は子供に与えたのだろうが、平泉に持って行ったかもしれないと、二つの可能性を示しているだけであった。銀作猫(鎌倉)と、銀造猫(平泉)とが同じものであるか、結論は出していないのだった。

 

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 私は、金造りの鶴など、平泉館で発見された財宝が、今も奈良・春日大社に残る平安末の遺宝と共通していることに気づき、銀造猫もまた、春日大社に残る太刀飾りの猫像で偲ぶことができるのではないか、と前に書いた。

 

 その後、2017年東京国立博物館の「春日大社千年の至宝」展に展示されたその猫(金地螺鈿毛抜形太刀)を見に行った。動きのある猫に私は興奮したが、なにぶん小さな模様なのと、愛嬌のない猫の表情なので、観覧客にさほど人気を呼ばない様子だった。

 この動きのある猫を、銀で立体にしたのが、西行の猫なのだと、私は考えたのだった。

 

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 落手した「西行」続編に落胆しながら、以前自分が考えた事を、わが家の猫と振りかえってみた。

   西行寂滅の時も手元に置いてあったという銀作猫の話は、なんだったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川田順の銀猫探し

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  彫刻家松山秀太郎氏の言葉をきっかけに、西行の銀猫探しを始めることにした。

 どんな結果が待ち受けているか。期待外れの可能性もある。

 

 同氏の書簡の確認から始めると

 

西行が頼朝に貰った銀猫を門口で何の屈託もなくただちに子供に与へたと云ふのは傳説ですが川田順氏の西行研究では実際はさうでなく西行が寂滅してから西行の手許に残って居たと書いてあります。」(「石井鶴三往復書簡集Ⅲ」

 

 川田氏の「西行研究」探しから始めよう。

 松山氏の書簡は日時不明だが、昭和16年8月29日の石井鶴三書簡の返信なので、8月末か9月頭のものだろう。

 

 その前に、川田氏が発表した西行研究を探すとー。

 「西行」       昭和14年 創元社

 「西行2 西行研究録」昭和15年 創元社

 2冊が上梓されていた。

 

 歌人川田順氏は、住友財閥の住友総本社の常務理事を務めた財界人でもある。その後有名になった「老いらくの恋」が始まる前のことだ。

 

 注文した「西行」が富山県の古書肆から届いた。

 昭和15年8月31日11版。1年で11版、相当売れたようだ。

 本に紙が挟まっていた。金沢・香林坊の「正文堂書店」のチラシだ。

「☛学生諸君の店現る―――参考書 最高価買入開始

  ☆新舗當店は今後参考書類を大々的に賣買致します

  ◇御買入價◇賣價 断然他店ノ追從ヲ許サヌ 

   大勉強奉仕

  薄利を以て皆様の店として張り切ります

  ぜひ一冊でもお譲り下さい

  香林坊(廣坂筋)

  参考書と各専門書  正文堂書店  電 六七四 呼」

 

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 さらに、貯銀協会作成の銀行用の「所得資料箋」の一片。裏に女性(アヤ子さん)の筆で短歌が書かれていた。

 

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 チラシの地図を見ると、店の右向かいには旧制四高(現四高記念文化交流館)。四高生相手の書店だったようだが、本は短歌を作る銀行関係の女性が購入したらしい。こういう女性が「西行」を買って、第11版までなったのだろうか。チラシは、本が刷られた昭和15年8月からあまり経っていない時期の作成らしい。

 

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 さて、銀猫を探さねば。

 川田氏が「信拠し得べき文献に依りてのみ作成」した西行の年譜で銀猫を探す。

 

「文治二(六九歳)

  初秋の頃伊勢発足、東大寺大仏殿再興の沙金勧進のため東海奥羽行脚に出づ。年たけて又越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山、風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思いかな(共に異本山家集、但、後の歌を戀の部に入れたるは誤謬)の詠あり、八月十五日鎌倉にて頼朝に謁し、翌十六日頼朝贈るところの銀猫を営外の小童に與へて去る(東鑑)、途に陸前名取郡笠島なる藤原實方の古墳を弔ひ、十月十二日平泉着(山家集下上)流罪にて同地に在りし南都の僧と中尊寺にて面談し遠国述懐の歌を詠む(異本山家集雑) …」

 

 銀猫を貰った時、西行は69歳だったこと、鎌倉へは東大寺大仏殿再興のための勧進(資金集め)の旅の途中だったことをまず確認。

 

 「さて、ちょっと余計の事を言ふが、此の有名な銀猫は、果して児童に呉れたのであらうか。同じく東鑑に拠ると、文治五年八月廿一日、泰衡平泉館に放火して逐電し、翌廿二日頼朝その焼跡を検分すると、坤の隅に倉廩一宇火を免れて残ってゐた。内部には、紫檀厨子・犀の角・象牙の笛・金の沓・金造りの鶴等々の珍宝眼をおどろかし、さうして「銀作りの猫」もあった。」

 

 何年か前に、私は平泉の蔵に入っていた「銀造猫」について書いた。「銀の猫が2つもあったとすると、よほど流行していたとしかかんがえられないが、そんな気配はない。/西行は、猫の像を、子供にあげないで、次にむかった平泉に土産にもっていたのではないか、とおもってしまう。/藤原氏西行、頼朝の関係、思惑などの考察は沢山あるけれど、いったい、どんな猫の像だったか、調べている人はいないのだろうか。」

 

 川田順氏は、それなりに調べていたのだった。

 

 「西行、墨染の袖に包んで、奥の秀衡へ引出物にしたか。伊勢から俊成の許へ浜木綿を送ってもゐる。なかなか、こまかく気のつく男でもあったのだ。沙金勧進と云へば古風に聞えるけれども、今日で云へば寺へ寄付の勧誘だ。まんざら俗才無くて出来る役目ではない

 

 住友財閥経理畑を歩んだ川田氏だけに、西行勧進の旅、金集めの旅は、俗才がなければできないことと見抜いていたようだ。銀作猫は、藤原秀衡への引出物として用いて届けたのではなかったか、と川田氏は考えた。

 

 しかし、この川田説は、松山氏の「西行の寂滅後も西行の許に銀猫があった」という川田氏の研究内容とは食い違っている。

 

 川田氏の次作「西行2」で、銀猫について新たな展開があったのだろうか。

 猫と共に、「西行2」の到着を待っているのだが、はたして。

 

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西行の猫再び

 西行の銀猫のエピソードについて、前に触れた。その後、この逸話は、江戸時代から画家たちの恰好の題材として扱われてきたのだと知った。

 

 銀猫のエピソードとは、平泉に向かう途中に西行法師が、鎌倉の鶴岡八幡宮で、源頼朝と出会い、流鏑馬故実を教えた、頼朝は褒美に「銀作猫」を与えたが、門外に出ると、遊んでいた子供に惜しげもなく銀猫をあげてしまった、という話だ(「吾妻鏡」文治2年の条)。

 

 江戸時代から、長谷川雪旦(1778-1843)らが、この情景を描いていた。私が気づいたきっかけは、夭逝した考古学者榊原政職を描いている榊原喜佐子「殿様と私」(草思社、2001年)だった。

 著者である、元高田藩主の夫人が、同藩出身の「金子老人」から、小林古径速水御舟横山大観川合玉堂らの軸を見せられた思い出話に、「いまでも覚えているのは、ぶどうの房とりすの絵、銀の猫の置物をおしげもなく村の童にくれてやる僧の図など。」と記していたのだった。

 

 銀の猫の置物をおしげもなく村の童にくれてやる僧、とは西行ではないか。

 (葡萄栗鼠(ぶどうりす)の題材も、「武道律す」の語呂合わせで、江戸時代から好まれた。遠坂文雍、森寛斎など)

 

 その後、森田恒友の仲間の一人であった彫刻家石井鶴三の、松村秀太郎との往復書簡集「石井鶴三書簡集Ⅲ」に、銀猫の彫刻の出来事が出て来るのを知ったのだ。

 昭和16年のことで、当時鶴三は、院展の彫刻部門の審査員をしていた。知人の松村が院展に銀猫の彫刻を応募し、それを審査したのだった。

 彫刻部門は、鶴三とともに、平櫛田中が審査していたが、平櫛が松村の彫刻審査で異議を唱えた。

 松村作品は、子供が西行の腰にすがって銀猫を欲しがっていた。平櫛は、作者の理解が違っている、西行が頼朝の銀猫を子供に呉れてやったのは、西行の意志であり、子供が欲しがったからではないのだと。

 一応、他の一点とともに入選となったが、注文がついたため、鶴三は、審査の様子を書簡で、松村に知らせた。その中で、西行にすがる子供の像を取ってしまってはどうか、という提案が出たことを記している。

 

 松村は、返信できっぱり提案を拒否した。よほど腹が立ったのだろう。作品は彫刻的な価値が問題で、史実とされる構図に合わせるのは承知しかねる、と。

 しかも、歌人川田順西行研究では、寂滅後も西行の元に銀猫は残っていたとしている、銀猫の挿話は史実とは限らないと主張している。

 

 芸術家として、もっともな松村の主張に、鶴三は、平櫛が言い出したことなのであらためて説得してみる、と松村をなだめている。

 

 色々な意味で、審査員の鶴三の態度は情けない。

 

 しかし、まずは銀猫のこと。西行の死後も手元に置いていたというのは、どういうことなのだろう。

 

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 ウチの猫と一緒に調べてみるか。