曲がった牛蒡と、間違った道順

 午前中、我々の事務所への電話が、かからなくなった。外に出ているスタッフから、所内のスタッフのケータイに電話があり、事務所の電話が通じないと言ってきたのだ。

 確かめるため、ケータイから事務所の番号へ電話すると、「ただいま回線が混みあって、かかりにくくなっております」と女性の音声が繰り返し流れた。

 

 「もしかして、あれか」「あれでしょう」

 千代田区でも、ワクチン接種の予約が始まり、開始時間に電話が殺到したのではないか、という結論になった。小一時間で復旧したが、ワクチン予約殺到状況の凄まじさが、伝わってきたように思えた。

 

 私は、推理したり、発見することが好きだ、どんな小さなことでも。

 

 最近、面白いと思ったのは、曲がったごぼうの話だ。

 大正13年に、東京・町田で遺跡が発見され、そのきっかけがごぼうだった、というのだ。柴田常恵氏が残した國學院大學デジタルアーカイブで、当時の遺跡周辺の写真を探すと、農家が数軒あるだけの、畑地が広がる丘陵地帯。

 その畑のごぼうが、ある場所だけ、根が曲がって育つ。疑問をもって掘ってみると、大きな敷石が見つかった。

 通報を受けて、柴田氏(夭折した考古学者榊原政職氏の師として先に触れた)や後藤守一氏が出向いて調査すると、縄文時代中期末の敷石住居跡で、縄文住居の床に石を敷いた例は、初めての事例、発見だった(国指定史跡高ケ坂石器時代遺跡として、現在も整備保存)。

 

 曲がったごぼうへの疑問が、地下の遺跡発見につながったのが興味深いと思った。

 

 この発掘には、福井県生まれの曹洞宗僧侶で、東京・埼玉の郷土史家として活躍した稲村坦元氏が上記の両氏とともに参加した。当時東京府史蹟保存調査の仕事をしていた同氏は、2年後、東京郊外で、やがて国宝となる建造物を発見する。

 

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 震災後まもない昭和2年、稲村氏はカメラマンとともに、東村山にある徳蔵寺の板碑を探しに出かけた。最寄り駅を降り、道端のお婆さんに道を聞いて、教え通り行くと、寺はあったが、徳蔵寺ではなかった。

 正福寺という知らない寺院。稲村氏は、奥の方に見なれない建物があるのに気づき、住職に聞いた。北条時頼の建立と伝えられる地蔵堂だという。荒れ果てていたが、とにかく珍しい建物なので撮影し、すぐ早大の建築史家、田辺泰氏のもとに駆けつけた。写真を見た田辺氏は「東京にこういうものがあるのか」と驚き、自分でも確認に出かけた。2か月後の真冬、学生と駅前旅館に泊りこみ、実測調査にあたった。

 調査報告を文部省に提出すると、行政は直ちに反応し、翌年1月には建築史の大御所関野貞氏が出張して確認、4月に「文部省特別保護建造物」(重要文化財)の指定が早々と決まった。当時は指定に3、4年かかるのが相場で、3か月というのは超異例のスピードだった。(国宝昇格は1952年)。

 

  かくして、鎌倉の円覚寺舎利殿とともに、鎌倉、室町時代の「唐様」の代表的建造物、正福寺地蔵堂が世に知られるようになった。

 

「徳蔵寺へまっ直ぐに行って正福寺によらなければ、まだまだ発見がおくれたかも知れません」と、稲村氏は田辺氏との対談で振り返っている。「正福寺をめぐって」(武蔵野、昭和31年4月号)。

 

f:id:motobei:20210519153202j:plain 昭和2年、発見当時の地蔵堂(「武蔵野」より)

 

 私も十数年ほど前に訪れた事がある。この地に国宝の仏堂が残っていたことが、奇跡のように思えた。2009年に迎賓館赤坂離宮が国宝指定されるまでは、この地蔵堂が都で唯一の国宝建築物だった。

 おばあさんの間違って教えた道順やら、稲村氏の「見慣れない建物」への直観、閃きがあって、国宝発見につながったことも、稲村氏の回想で最近知ったのだった。

 発見へのヒントはいまも、どこかに転がっているのではないかと、私はひそかに思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二千円札のおつり

 神田の街は、緊急事態宣言で古本店がみな閉まっている。5月一杯、昼の散歩も味気ないものになる。

 

 和菓子の老舗が開いていたので、生和菓子を買いに入った。5月の菓子のうち、あえて今回は柏餅、木の芽田楽は外し、藤、清流、岩根つつじ、落し文、卯の花、深見草を択んだ。

 

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 おつりに、二千円札が混じっていた。ここでは、近所の金融機関に頼んで、手の切れるような二千円札を確保し、おつりに用意してある。二千円札を嫌う客には押し付けないが、私は大歓迎である。

 

 自動販売機などではほとんど使用できないが、珍しいのと、美しい絵柄が気に入っている。表は、首里の守礼の門。裏面に、源氏物語絵巻「鈴虫」の絵図が、紫式部の姿とともにデザインしてある。福沢諭吉(裏・平等院鳳凰)、樋口一葉(裏・燕子花図)、野口英作(裏・富士山と桜)のどれよりも、美しい。

 

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 昨年、神田明神の御防講(おふせぎこう)の講元に就任した店の主人のこだわりでもあるようだ。(防災、消火と江戸時代から、神田明神の警護にあたる役が御防講。神輿庫の鍵を預かる宮鍵講(みやかぎこう)とともに、今でも神田祭を支える重要な存在だ)

 

 店先で御主人に二千円札へのこだわりを聞いたことがある。やはり美しい絵柄だった。近所の企業や大学の茶道サークルの人たちが、店に、茶道用に和菓子を買いに来るのに出くわす。客を思って、おつりにもこだわっているのだった。

 

 わたしは二千円札を他のお店で支払うとき、「ニセ札ではありませんよ」と一声かけることにしている。「あれ、珍しいですね」「どこで手に入れましたか」と反応する店員が多い。2000年に発行され、いまは印刷を停止している札は、結構人気ものなのだ。

 

「おいしい暮らし」に欠かせないトマト

 息子が送って来た「おいしい暮らし 北インド編」(有沢小枝、教育評論社)を、読んでいたら、俄然インドの料理を作ってみたくなった。

 

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 我が家は、孫ができる前は、ちょくちょく南インドカレーの店に行って、ケラーラ州出身のマスターのインド料理を楽しんだ。種々のカレー、タンドリー・チキン、サモサ、トマトスープなど、決して吾々には作れない味だと思っていた。

 本の著者の有沢さんは、麹町でインド料理店を持っていて、夫と暮らした北インドで覚えた家庭料理の味を提供しているらしい。本には、インドの食文化と、その背景についてわかり易く、興味深く書かれている。最後には4点だが、料理のレシピも掲載されている。

 

 コロナ禍のなかで、料理に関心を持ち、手習いを始めたばかりの私にも、ひょっとしてできるのではないか、とチャレンジ心が沸いてきた。

 

 GWの初めにチキンカレーとナンを作ることにした。台所に不足していたドライ・イースト、ベーキングパウダー、無塩バターは、仕事帰りに、スーパーやベーカリーに寄って買って帰った。

 

 作るのは2人分のチキンカレー。何種類もの香料は揃えきれないので、香料不要のレシピを探し出した。玉葱を炒めた鍋に、トマト缶をまるまるあけて煮ながら、こんなに沢山トマトを入れるのかと思った。

 本には、インドがトマトの生産量で世界2位(ダントツは中国。トマト料理の印象が強いイタリアは5位)であり、いかにインドでトマトが消費されているか、どんなカレーにもトマトは欠かせないと書いてあった。カレーを支えるトマトのことが少しわかった気がした。

 

 カレー粉は大さじ一杯程度。ジップに、ヨーグルト、生姜、大蒜などと混ぜ合わせ、鶏もも肉にもみこんで、小一時間寝かせた。インド料理には生姜は特に欠かせない。インドの生姜の生産量が、世界一である理由も本には書かれている。

 

 ナンをこねて、ラップで包んで30分ほど寝かせると、イースト菌の力で、大きく膨れ上がってくる。鍋で表裏を焼いて、無塩バターを塗って完了。

 

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 思ったより、簡単に出来た。見てくれは良くなかったが、自分でも驚くくらい美味しかった。辛口の細が「美味しい。南インドカレーの店の味に似ている。ナンは厚すぎるけど美味しい」とほめるではないか。

 

 トマトといえば、今年の正月にスペイン料理「パエーリア」に初挑戦した時も、トマト缶を使い、イカをグツグツ煮て、ベースの味を作ったのだった。トマトの大いなる役割を、この齢になって気づくとは。

 

  本には、「インドにカリーという食べ物は無い。カリーとは南インドタミル語で副菜、まあ一言で言えば惣菜の意味を持つ言葉である」といったインド知識があふれている。インドの爆発的な新型コロナ感染拡大を心配しながら、悠久のインド食文化に少しだけ触れた思いー。

 

 

東福寺正覚庵での若き茅舎

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川端茅舎/松本たかし集(朝日文庫、85年)より


 虎杖をくわえながら墓掃除していた若い修行僧の句について、思い当たることがある。

 東京生まれの川端茅舎は、若き頃、度々京都の東福寺正覚庵で過ごしていた。医師への道を取りやめ、兄の川端龍子同様、絵画を目指して岸田劉生に師事する、その前からだった。

 今では、紅葉の名所として観光客であふれかえる東福寺の一塔頭にのんびりと籠っていたのだった。

 

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 私が、茅舎の京都時代について関心をもったのは、神保町のY書房で偶然手に入れた、松本たかし主宰の俳句誌「笛」昭和23年9・10月合併号だった。丹波俳人京極杞陽の「茅舎に就て」が掲載されていて、猿橋統流子という人物からの便りを紹介。猿橋氏が正覚庵の僧侶だった平泉恵信師から聞いた話を書いていた。

 

 それによると、茅舎は早々と中学在学中(独協中学)から、臨済宗東福寺の正覚庵に出入りしていたらしい。「中学時代もこの恵信坊と共に悪戯せし思い出を聞きました」と猿橋氏。半年以上滞在することもあり、絵を描き、俳句を作り、そして禅の修行にいそしんだらしい。

 寺の修行僧、7歳年下の恵信師を上記のように「恵信坊、恵信坊」と呼んで可愛がり、弟分のように従えていた。実際、

「囀(さえずり)や拳固(げんこ)くひたき侍者恵信」

「侍者恵信糞土のごとく昼寝たり」と、

 恵信師を「侍者(雑用係)」扱いした句を残している。

 

 正覚庵の居心地が余程よかったのだろう。住職の平泉温洲師を描いたと思しき

「和尚また徳利さげ来る月の庭」があるし、住職夫人の様子も、

「梵妻や芋煮て庫裡をつかさどる」の句で彷彿とする。

 

 恵信が雲水姿で上京し、茅舎を訪ねたことがあり、茅舎が雲水姿の恵信と連れだって東京を案内したこともあった。「まんぢゅう笠に膝まで脛を出し草鞋ばきの恵信坊とつれだちて歩きながら茅舎が、恵信坊の歩いたあとは風が新しくなる。というやうな意味のことを言ったといふ」と記されている。

 

 茅舎の初期の寺坊や僧の句は、殆んどがこの正覚庵での作らしい。「達磨忌や僧を眺めて俳諧師」も、東福寺の達磨忌の情景で、堂内を「赤青紫黄など法衣の僧がグルグル廻る」行道の盛大な行事を見ての一句だという。

 

 大正12年9月1日の関東大震災で被災した26歳の茅舎は、3週間後の夜10時ごろ、甚平姿で京都のこの庵に到着し、その後、庵で半年ほど過ごしたと、恵信師は語ったという。

 茅舎の年譜には「関東大震災日本橋区蛎殻町の家屋焼失。信州、渋温泉に父母と共に避難。十二月、岸田劉生の家に泊まり越年」(「川端茅舎/松本たかし集」朝日文庫)とあり、茅舎は渋温泉から京都に出、年末には庵を出たことになる。

 

 1929年に劉生が38歳で逝去すると、茅舎は画業を放棄し、俳句に打ち込んだ。高浜虚子に師事し、34年「ホトトギス」同人に。

 

「虎杖を啣へて沙弥や墓掃除」の句もまた、若き日正覚庵での句に違いなく、おそらく恵信師が墓掃除する様を描いたものだろう。同時期に「しぐるるや沙弥竈火を弄ぶ」という沙弥を描いた句もある。

 

 晩年の脊椎カリエス結核との闘病の句の印象が強い茅舎には、京都での弟分との明るい青春時代があったのだ。

 

 一度、「正覚庵」を訪ね茅舎を偲びたいと思ったが、同庵のHPによると団体やツアーでないと拝観は受け付けない、とあった。

 

春野菜こごみのおすそ分け

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 近所の奥さんから春野菜の「こごみ」を頂いたので、お浸しにして鰹節をかけて食べた。アクもなく、新鮮でおいしく、何本も食べた。

 

 群馬県沼田にある奥さんの実家から大量に届いたので、おすそわけ、とのことだった。流通を通さないで得る、こうしたものが、実に贅沢に思える今日この頃である。(天ぷらにしてもよかったかな、とも思う)

 

 こごみの若芽は、ぜんまいやわらびのように、頭が丸まっているが、いちばんきちっとした渦を巻いているのが、このこごみだ。

 成長すると、小さな、「草のソテツ」のようになるので、「クサソテツ」と呼ばれているそうだ。ダチョウの羽毛にも似ているので英名はOstrich Fern(ダチョウシダ)」。

 

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 春野菜では、フキノトウ、タラノメ、ウドなどもよく食べるが、気になっているのがイタドリ(虎杖、スカンポ)。食べたことはあるのだろうが、意識して食べた記憶がない。

 

 前に書いた「日本歳事史 京都の部」の、4月の歳事「更衣」の次の項目が、「虎杖狩(いたどりがり)」だったので、興味を持って読んでみると。

 

四月一日 虎杖狩 

今日(17世紀後半にあたる)貴船神社では唐櫃七合に海藻魚鳥種果菜(かいそうぎょちょうなづな)を入れて奉る。上賀茂神社司は騎馬で参向、帰途市原野連理芝で虎杖を取り、その大小多少を競ふのである ≪雍州府志≫ 今(大正11年)この儀はない。現今は六月一日午前官祭が行はれ午後私祭を執行、神輿は明治四十一年から渡御老若男女供奉して午後九時還幸する。」

 

 江戸時代には、太陰暦四月一日上賀茂神社の神官が馬に乗って、鴨川の上流にある貴船神社の「貴布禰御更祭」に出席するのが習わしだった。(この祭は、貴船神社の祭神、水の神のたかおかみに、御饌を奉納するものだ)その帰途、市野原で、神官らはイタドリを採集し、数、長さを競争したのだった。それが「虎杖狩」。

 

 イタドリは、タケノコ状の新芽、若い茎が食用になるのだという。皮をむき、熱湯を注ぎ、水を頻繁に代え、一晩水につけてアクを抜く。ガンモドキなどとの煮物にも、肉と一緒にさらっと炒めてもよさそうだ。高知県では、塩漬けにして一年中食べるのだという。

 

 市原野で採ったイタドリは、上賀茂神社に奉納され、その後、神職らが食べたのではないか。鞍馬川沿いの市原野は、上賀茂神社の馬や食糧の補給基地だったようだ。市原野のイタドリは、春を告げる野菜として、いにしえの上賀茂の社人は楽しみに待っていたのだろう。

 

 そうそう、虚子門の俳人で、

ぜんまいののの字ばかりの寂光土」

「約束の寒の土筆を煮て下さい」

 などの俳句(ともに春野菜!)で知られる川端茅舎(1897-1941)には、

虎杖いたどり)を啣へて沙弥や墓掃除」

 という、いたどりを咥えた修行僧の句もあるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コロナ自粛と虚子のコレラ句

 新型コロナの蔓延もあって、夏の季語として俳句で扱われていた「コレラ」の句も、見直されているようだ。

 神保町のA書房の100円本で見つけた昭和3年「虚子句集」には、「寝冷」と「冷奴」に挟まれて「コレラ」の季語が置かれ、8句が掲載されていた。

 

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 コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな

 

 紫陽花にはやるともなきコレラかな

 

 コレラの家を出し人こちに来りけり

 

 松原やコレラを焼きに船の人

 

 豊作の枇杷の価やコレラ

 

 コレラ船いつ迄沖にかかり居る

 

 護園派の二人死にたるコレラかな

 

 村々を流行り過ぎたるコレラかな

 

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 昭和3年、「花鳥諷詠」の立場を宣言した高浜虚子が、コレラに対しても、目を背けずに、しっかりと「写生」していたのに驚いた。

 

 日本でのコレラの大流行は大正9年で終焉したが、明治時代には15,18,19,23,24,28,35年と、周期的に大流行したという。明治15年は死者3万人を超え、18-19年の両年には合計12万人が亡くなった。

 死者が減って来た明治35年は、9千人。ちょうど、2020-21年の新型コロナウイルスの死者の合計数と同じ位。恐ろしい経口感染症だ。

 

 コレラの死者は焼かれることが法律で定められた。「松原やコレラを焼きに船の人」は、海岸線の砂浜で焼き埋葬された光景なのだろう。

 船の乗客、船員に感染者が出ると、船は40日間入港できなかった。「コレラ船いつ迄沖にかかり居る」の句は、沖に停泊するコレラ船を思っている。

 

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 書棚に「ホトトギス雑詠選集(夏の部)」(改造社、昭和15年)があるので、「コレラ」の季語を探すと、門司に住む久保晴の2句だけ掲載されていた。俳句誌「ホトトギス」に明治41年から昭和12年まで掲載された句から、高浜虚子が選び出したものだ。

 

 コレラ船ひとかげをみることもなし

 門司を去るコレラの船のなが汽笛

 

 昭和6年、門司港沖のコレラ船を描いたものだった。昭和に入っても、コレラの小さな流行があった事がわかる。

 

 虚子の句に戻ると、私には解釈できない作品がある。

「豊作の枇杷の価やコレラ年」の、枇杷コレラの関係が分からない。枇杷コレラ予防にいいとか、その逆で感染源だとか風評が流れたのだろうか。

「護園派の二人死にたるコレラかな」の護園派に関しても無知である。

 

 今回のコロナで、コレラの句が見直されていて、私は以下の句を知った。

 

 コレラ怖ぢ蚊帳吊りて喰ふ昼餉かな(杉田久女)

 コレラ出て佃祭も終りけり(松本たかし)

 月明や沖にかかれるコレラ船(日野草城)

 

 俳句でもって、コレラと、社会を捉えようとしているのだった。

 

 

 

 

4月22日の夏服

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日本歳事史 京都の部の見返し


 最高気温が27℃というので、夏服を探して出勤する。

 

 はやばや4月22日に衣替え。

 わが事務所ではクールビズは世間並みに5月1日から。温暖化が進んでいて、春の短さを思い知らされる。

 

 近所の神保町のA書房の100円本で見つけた「日本歳事史 京都の部」(江馬務、内外出版、大正11年)が、机の上にあるので、「衣替え」の項を探してみた。

 

 四月一日

 更衣(ころもがへ)

 今日から宮中では総て夏装束に更へられる。同時に民間では今日から綿入を改めて袷と着更へる。仏刹でも今日から夏の装束と取り替へる。

 

 4月1日は、太陰暦の表記なので、今年は太陽暦でいつになるか調べると、5月12日だった。4月22日は3週早い衣替え。

 クールビズが叫ばれる以前は、衣替えは6月1日。あの頃は、それで通用していたのだった。

 

 「日本歳事史」には、面白い付け足しがあった。

 

 「四月一日といふ人の姓がある。ワタヌキと読むのもこの理(ことはり)である」。更衣で、綿入から袷に変わって、綿抜きとなるから、ワタヌキさんというわけだ。

 姓で言うと「小鳥遊」が、小鳥が遊べるのは猛禽類の鷹がいないからなので、タカナシさんと呼ぶのを思い出した。

 

 夏服の朝、「この国を捨てばやとおもふ更衣」(安東次男)の句が口をついて出てきた。以前は気負ったこういう句をこのんだが、今では

「御手討ちの夫婦なりしを更衣」(蕪村)のような、恩赦された夫婦の衣替えを描いた平凡で、めでたい句が好きになっている。