カメムシ騒ぎ

 事務所で数人の職員が騒いでいた。8階の窓ガラスに貼りついた虫が原因らしい。

 ひとりが、カメムシを見つけたのだ。しかも、ガラス戸の内側に止まっている。

「外に放り出して」と怖がる女性職員もいる。

 

 勇敢な男性職員が、ビニール袋に虫を取り込んで、別の小窓から虫を飛ばした。カメムシで、こんなに騒ぐものかな、とちょっと世代ギャップを感じた。

 

 周りに、カメムシが住む畑やら花壇などはないはずだが、界隈で増えている超高層ビルの屋上庭園に思い当たった。高層ビルの屋根から空中、風で飛ばされてきたのだろう。

 

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 その直後、埼玉・高麗近くの知人の喫茶店(2F)に、孫を連れ一家総出で遊びに行ったところ、窓に貼りついているカメムシを見つけて、騒ぎとなった。窓の外側にも1匹いる。草木がふんだんに植えられている庭から、飛んできたのだ。若い主人が紙でつまみ出した。「今年はカメムシが多いんですよ」

 兵庫県でも異常発生して、果樹園に被害が出ていると報じられていた。夏の猛暑のため繁殖したらしい。

 

 触るとすごい匂いが指につき、ちょっとやそっとで消えないという知識はあるが、カメムシのこんな騒ぎっぷりが続いたのは初めてだ。

 

 カメムシの論文をWEBで探すと、榊原充隆「カメムシ学入門」(北日本病虫研報67、2016年)に行き当たった。

 皆が大騒ぎするカメムシの臭いは、アジアの南方地域では許容する傾向があるらしい。つまり臭いをを気にしない地域だ。

 それが「コリアンダーパクチー)摂食文化圏」と重なっているのだそうだ。日本ではコリアンダーに「カメムシ草」という和名があるように、臭いの成分アルデヒド類が似ているということだった。(日本ではパクチーを好む人が増えているが、カメムシ許容はまだまだ)

 

 また、昆虫マニアには、カメムシ屋といわれるグループが存在するらしい。陸生、水生、両生と3つに分かれ、種類が豊富で、美しいものもいる。カメムシ目のヨコバイ亜目には、セミも含まれるのだった。1万円前後の大冊「日本原色カメムシ図録」(全国農村教育協会刊)は、陸生だけで3巻まで発刊され、なお、また継続出版の予定という。

 

 カメムシの世界は広いのだった。

 

本物らしいギレリスのサイン

 猫のいる古レコード店では、思いがけないレコードに出会う。

 

 ロシアのピアニスト、エミール・ギレリスの英国発売のRCA盤を買ったときもそうだった。家に戻って、さあ聞こうと思った時、ジャケットに、ボールペンのサインを見つけた。E GILELS と読める。

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 まさかと思って、ネットでギレリスのサインを捜すと、大変良く似ていた。いたずらの可能性が高いだろうが、折角だし本物と思うことにした。

 LPには、バッハのフランス組曲5番とショスタコーヴィッチのソナタ2番が録音されている。

 

 その後、しばらくしてジャケット内になにかレコード以外のものが入っているのに気づいた。ロンドンのロイヤル・フェスティバルホールでのギレリス公演のプログラムだった。

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 1984年2月5日午後3時15分開始。

 スクリャービン 3番のソナタ/5つのプレリュード

 プロコフィエフ 3番のソナタ

  休憩

 ベートーヴェン ソナタ29番 作品106 ハンマークラヴィーア

 

 1985年、ギレリスがモスクワで不運な死を迎える1年前の英国公演のプログラムだ。公演時は67歳だった。

 

 このレコードの持ち主は、ギレリスのロンドンコンサートを聞いた時、サインをもらったに違いない。なぜか、それが巡り巡って神田神保町の古レコード店にやって来て、今はわが家のレコード棚におさまったわけだ。

 

 私の好きなハンガリー生まれの指揮者フリッツ・ライナーが東欧に侵攻したソ連を憎むあまり、ギレリスとの共演を拒否しようとした因縁もあるし、このLPがきっかけでギレリスのことをもっと知りたくなっている。

 

 

 

 

 

ミドリさんに贈られたリヒテルの10吋LP

 猫のいる古レコード店に行く。

 神保町に少しずつ人が戻ってきているが、一本裏道となるとまだまだだ。

 レコード愛好家の年寄(私もそうだが)の足が遠のいているのだそうだ。

「妻に外出を止められて、そちらへ行けない」と、常連の年配客から連絡があったそうだ。

 

 そんなわけで、少しでも応援しないとならない。看板猫に挨拶して、レコードを捜す。

 10インチLPが幾枚か置いてあった。

 リヒテルの「モーツアルト ピアノ協奏曲20番」を択んだ。

 

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 ロシアがソ連だったころのレーベル、メロディア盤は音がいい印象がある。主人にそういうと、「国の沽券にかかわるので、録音はいいのが多いですが、その反対にひどいのが混じってるんです」

 このリヒテルの10インチLPは、メロディアでなく、AKKOPД(アコルド)という知らないレーベルだった。

 家に帰って調べるがよくわからない。レニングラード(ペテルブルグ)のプレス工場で制作されたレーベルだということがやっと判明した。

 

 ジャケットには、オーケストラの名が入っていない。ラベルに目を凝らすと、ワルシャワ国立フィルで、指揮はヴィスロツキとあった。

 

 さらに調べると、リヒテルが米デビューする1年前の1959年4月、ワルシャワで録音されたもの、ドイツグラモフォンの技師がポーランドに乗り込んで録音したうちの一枚だった。

 それが、ソ連の大手メロディアでなく、レニングラードの小レーベル、アコルドでプレスされ、国内発売された理由のようだ。

 

 驚いたことに、ジャケットの裏の空白に、ロシア語で4行、ボールペンで書かれた文章があるのを見つけた。

 

「親愛なるミドリ。あなたが音楽で成功することを祈っております。〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇」

 〇は、ロシアの女性名だった。

 

 ミドリという(日本人と思しき)女性音楽家に、ロシア女性がこのLPを贈ったのだった。リヒテルのアコルド盤を選んで。

 ミドリさんは、その後、よい音楽家になったのだろうか。

 

 このLPが、巡り巡って神保町の猫のいる古レコード店にやって来たのも、それなりの理由があるのだろうが、当時とあまり変わらない音色で、リヒテルの生々しいタッチに、触れることができるのは至福である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

危ないキノコ狩

 高校時代、諏訪の寺に泊まり、キノコ採りをした思い出がある。

 夏休みにその寺でひと夏過ごしていたのだが、なぜ秋に行って、友達とキノコ採りしたのか、思い出せない。ただ、いっぺんキノコ採りなるものを体験したかったことは覚えている。

 

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 入笠山の麓、富士見町にある寺で、友達と一緒に起床。住職夫人に、採るべきキノコを見せられてから、林に向かった。食用のカラマツタケ。初めて見るキノコだった。カラマツの樹下に生えるキノコで、今回調べてみると一般にはハナイグチと呼称されているようだ。

 

「カラマツタケだけでいい。シロウトだから、ほかのキノコは、食べられそうだと思っても、危ないから取らないこと」と言い渡された。ぬめりがあって、成長したキノコは傘が広がって、割れていたりするものもあった。

 

 背負った籠に、半日かけて大量に採った。寺に戻ると、奥さんが呼んだ地元のキノコに詳しいおばさんが待っていた。キノコ判定をするのだ。新聞紙の上にぶちまけ、吾々は自信満々だった。

 ところが、おばさんはこれダメ、あら、これもダメだね、と言って結構な数のキノコを選り分けた。「あんたら、食べたら毒にあたっとったずら」と笑い飛ばした。

 

 キノコだけは、専門家の知識がないと大変なことになる。

 

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 太平洋戦争が終って、国民が食糧難に陥っていた時、キノコもまた、空腹を癒したようだ。

 事務所近くの古本店で見つけた昭和22年の雑誌「日本歴史」(霞ケ関書房発行)で思いがけない文章を見つけた(それで、高校時代を思い出したのだ)。

 

 同誌に、新刊紹介のコーナーがあって、キノコ採りのことが出ていた。「野草山菜 秋冬の巻」(3円80銭)。自社の刊行図書の宣伝紹介だった。

 

テングタケ、ツチカブリ、イツポンシメジの如き一般に有毒茸として信じられてゐる茸も、食べ方次第で全く無害美味であることを実例を挙げて説明」。

 

 なんという危ない内容。どんなことが書かれているのか、知りたくて、古本、図書館のアーカイブで探したが見つからなかった。

 

 著者(美並東)には、「蔬菜栽培の手引」という著作(共著)があり、いくらかの根拠があるのか。あるいは、文字通り「有害図書」として、すぐ廃棄処分されたのか。

 

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 昭和22年前後は、毒きのこにも手を出すくらい、人々が飢えていた時代だったのだと思った。


 霞ケ関書房発行の「日本歴史」は1年ほどで廃刊となった。編輯責任者は、戦前に旅行書、温泉書など多数の著書をものした同社経営の松川二郎で、バリバリの左翼から戦前の考えを残した学者と、歴史観の異なる歴史家たちが執筆しているのが珍しい。この人物もちょっと正体不明のキノコのような雰囲気を漂わせて興味深い。

 

 

 

 

 

 

地の果てまで這うヒキガエル

 出雲神話万葉集に登場するヒキガエルは、「国土の隅々まで知り尽くした動物」と見られている。ちょっと、分かりにくい。

 

 ヒキガエルは、万葉集の2首にタニグクの名称で登場する。

1)山上憶良が、家族を見捨てて暮らす男(たち)を諭す歌(巻5-800)。 

 天に上った(死んだ)なら身勝手でもいいが、地上にいる(生きている)限り、大君が支配するこの国で、やりたい放題はダメ、親や妻子の面倒を見よ、と説教をする歌。

 

「この照らす日月の下は 天雲の向伏(むかふ)す極み 谷蟆(タニグク)のさ渡る極み」

 ≪太陽、月が照らす下

 天雲のはるか横たわる空の果てまで

 ヒキガエルの這ってゆく地の果てまで≫

 

 と、ヒキガエルが地の果てまで渡っていくと、されている。

 また、天雲の五七の句と、タニグクの五七の句が対句になっているのが分かる。

 

2)もう1首は、高橋虫麻呂が、九州に節度使として派遣される藤原宇合に贈った歌。

 

 「たにぐくのさ渡る極み」と同じ表現で出てくる。

 「山彦の応へむ極み」と対句になって、

  ≪こだまの届く限り、ヒキガエルの這う地の果てまで≫

  と現代語に訳される。

 

 ヒキガエルは遠出しない、国の隅々まで跳んでいかない。

 なのに、どうして地の果てまでも渡っていくのだろう。とふつうは考える。

 結果「カエルはどこにでも生息しているからだ」と、まるで、カエルに全国連絡網があるかのような理解のされ方をしている。

 

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 古代中国南部の銅鼓に装飾されたカエル



 私は、違うと思っている。憶良は、遣唐使の一員だった。虫麻呂は動植物、伝説に詳しい博物学者。ともに中国の知識を持った奈良時代の知識人だった。唐の時代に、大陸ではヒキガエルをどう見ていたか、もちろん知っていたはずだ。

 

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 上図は、中国の古代銅器に描かれたヒキガエル。月中蟾蜍。月に住むヒキガエルのことだ。

 このヒキガエルは、もとは仙女の嫦娥だった。西王母から夫が貰った不死の秘薬を嫦娥が盗み飲み、月に逃げたのはいいが、蟾蜍に姿を変えられてしまった。

 紀元前2世紀に書かれた「淮南子」に出てくる中国で長い間親しまれる説話で、「嫦娥」は月の別称となり、「蟾蜍」もまた月の別称となっている。

 

「タニグクのさ渡る極み」とは、「月の光が遍く届く極み」として、山上憶良高橋虫麻呂は用いたのではないか。

  1. の歌は、日月の下、日の使者として天雲、月の使者として月光(タニグク)が届く極み、と解釈できる。
  2. の歌は、こだまの音の届く限り=聴覚に対して、月の光(タニグク)の届く極み=視覚として、対句になっていると考えられる。

 ヒキガエルは、月あるいは、月の使いとして「タニグク」と呼称されたのであった。

 月の持つ「不死」特性は、ヒキガエルにも受け継がれている形跡があり、月の不死の水(変若水)が、時代が下って、日本では「ガマの油」として生まれ変わったのではないかと想像している。

 

 

 

 

 

 

 

物知りのヒキガエル

 蛙の傘(ヒキノカサ)という小さな野草は、茎が日に日に伸びている。結構逞しいかもしれない。

 

 カエルは愛嬌があって好ましい。確か、チベット近くの岷江沿いの岸壁に、カエルの大きな絵が残っていて、この辺の少数民族が古代からカエルの信仰を持っていたという記憶がある。(調べ直さないと)

 

 日本では、ヒキガエルが古く古事記日本書紀出雲神話に「タニグク(多邇具久)」として登場している。日本でも、好まれている方の動物かもしれない。

 

 タニグクの登場する神話はー。

 出雲の岬で、オオクニヌシノミコトが海の向こうから船でやって来る小さな神に気づいた。名を問うが答えない。周りの神々に聞いても知らないという。

 そこにタニグクが口を出す。「クエヒコが知っている」。早速クエヒコを呼ぶと、「カミムスビノカミの子、スクナビコナ」とすらすら答えた。

 オオクニヌシは、カミムスビノカミに確認し、自分の子であるとの証言をえた。カミムスビは、オオクニヌシスクナビコナに、ともに国作りに励めというのだった。

 

 神話時代の出雲の「入国管理」も結構、キチンをした対応をとっていたと思う。

 

 来訪した人物が黙秘する → だれも人物を知らない→ データを持った物知りを呼ぶ → 物知りが特定する → 裏付けを取る

 

 タニグクは、クエヒコの存在を知らせる重要な役割を担った。クエヒコは、山田のカカシである、と古事記に書かれている。知識人クエヒコの存在を神々は知らなかった。タニグクは知っていた。タニグクも物知りの仲間のようだ。

 

 ヒキガエルのタニグクは、神話のほか、万葉集などに出てくる。

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浮世絵師鍬形斎描く蛙の略画(鳥獣略画式から)

 

 

 

 

蛙の傘を択んだ

  細に付き合って、植物園近くで開催されている「山野草の展示会」について行った。ホトトギス、ダイモンジソウ、エビネトリカブト、各種のノギク、スゲと、愛好家が出品した自慢の小鉢が並んでいた。

 

 私は、モウコノギクという、モンゴルの名がついた青色のノギクに目がいった。ほんとに小さなノギクで、花弁は8枚程度だった。

 モンゴルに咲いている野紺菊(ЦAXИЛДAΓ)の一種なのだろうか。

 

 鑑賞を終えて、細は野草売り場でなにやら熱心に探している。盆栽の寄せ植えの野草を捜しているようだ。私は、訳が分からないながら、葉の形が面白いので、「蛙の傘」=ヒキノカサの小鉢を買った。200円ほどだったので。

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 帰宅して、早速細は、鉢に植え替えをしている。ヒキノカサはどうしたらいいのか、「ネットで自分で調べたら」といわれたので、探してみたが、栽培法など書かれていない。

 蛙の傘は、山野草でなく、水辺、湿地の野草で、キンポウゲ科だということだけ分かった。

 

 さらに、松田修「季節別場所別植物図鑑」で、ヒキノカサを捜すと、「この名は蛙の住む湿ったところに生え花を蛙の小傘にたとえたものである」と命名の由来が記されてあり、「4-5月頃枝上の花柄に黄色の花をつける」ことが分かった。

 

 水だけ絶やさずに気温に気を付ければ、半年後に花が咲くのだろうか。細の指示で、このまま小皿を敷いて玄関に置くことにした。

 私には、葉が蛙の形に見え、この小さな葉が蛙の傘だと思ったのだが、松田氏によれば、蛙の傘は花だ断定している。そのあたりのことも気になって、花の様子も見てみたい。

 果たしてこの冬眠しない「蛙」が冬を越せるのか。心もとない。

 

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